そもそも、この世は生きづらい|中途重度障害者が伝えたい「苦しさを消すより、共に生きる社会」

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「生きづらさのない社会をつくろう」

そんな言葉を目にすることが増えました。

障害のある人も、病気を抱える人も、子育てや介護を担う人も、外国にルーツを持つ人も、誰もが生きやすい社会へ。

その願いは美しいものです。

私も、誰かが障害や病気、家庭環境、性別、年齢、国籍などを理由に排除される社会を望んではいません。

けれど、中途重度障害者として生きるようになった私は、ときどき思います。

そもそも、この世は生きづらいものなのではないか。

これは、絶望を伝えたいのではありません。

苦しみを我慢しろと言いたいのでもありません。

障害者への支援や合理的配慮を減らすべきだという話でもありません。

むしろ逆です。

人生からすべての生きづらさを消せるという前提に立つと、消えなかった苦しみが、本人の責任にされてしまうからです。

制度を整えたのに苦しい。

配慮を受けているのに働けない。

家族に支えられているのに前向きになれない。

社会が変わったのに、生きやすくならない。

そのとき当事者は、

「自分の努力が足りないのではないか」

「恵まれているのに苦しい自分は、弱いのではないか」

と、自分を責めます。

しかし、人間は制度だけで生きているわけではありません。

身体は衰えます。

病気になることがあります。

大切な人を失います。

努力しても報われないことがあります。

理解し合えない人もいます。

自分でも自分の心を理解できない日があります。

生きることには、どうしても消せない不確かさと苦しさがあります。

だから社会が目指すべきなのは、生きづらさを完全になくすことではないのかもしれません。

苦しみを抱えた人が、それでも一人にならずに生きられること。

助けを求めても価値を失わないこと。

できない日があっても、社会の外へ追い出されないこと。

立ち止まっても、再び戻れること。

私は、そこに本当の包摂があると考えています。

この記事では、31歳で脳出血を発症し、中途重度障害者となった私の経験から、

– なぜ人生には生きづらさがあるのか
– 障害によって「普通」が失われるとはどういうことか
– 生きやすい社会という理想が当事者を苦しめる場合
– 多様性や包摂に本当に必要なもの
– 昔の社会にあった不完全な助け合い
– 苦しみを抱えたまま生きる尊さ
– 社会が目指すべき現実的な共生

を考えます。

生きづらさを抱えている人にも、そうした人を支えている家族や職場の方にも、読んでいただきたい内容です。



「生きづらい」と感じることは、人生に失敗した証拠ではない

現代社会では、人生を自分で選び、努力し、自分らしく生きることが求められます。

好きな仕事を選ぶ。

自分に合った環境を探す。

人間関係を整える。

心と身体を管理する。

自分らしい人生を設計する。

それ自体は大切なことです。

私自身も「自分を大切にする生き方」や「人生再設計」を発信しています。

しかし、自分で人生を選べるという考え方は、ときに残酷な面を持ちます。

人生がうまくいかないとき、

選択が間違っていた。

努力が足りなかった。

自己管理ができなかった。

環境を変えなかった本人が悪い。

そのように、苦しみまで個人の責任にされることがあるからです。

私は31歳で脳出血を発症しました。

左腕が動かなくなり、左脚にも麻痺が残りました。

それまで描いていた人生は、突然途切れました。

病気になる前の私は、努力すれば人生はある程度コントロールできると思っていました。

しかし、一度の発症で、身体も仕事も家族関係も将来像も大きく変わりました。

人生は、自分の努力だけではどうにもならない。

その事実を、私は身体で知りました。

生きづらさを感じることは、人生に失敗した証拠ではありません。

人間が、予測できない世界を生きている証拠です。



障害を負うと「普通に生きること」が遠くなる

障害を負う前、私は「普通に生きる」ということを意識していませんでした。

歩く。

着替える。

働く。

買い物へ行く。

電車に乗る。

家族を支える。

将来を考える。

それらは、努力して獲得するものではなく、当然のように存在するものだと思っていました。

しかし、障害を負うと、その当たり前が一つずつ遠くなります。

片手で服を着る。

転倒しないように歩く。

人より早く家を出る。

段差や階段を確認する。

疲労を計算しながら予定を立てる。

できるかどうか分からないことへ挑戦する。

何をするにも、障害のない頃には必要なかった準備が増えます。

周囲の人が普通に行っていることに、自分だけ多くの力を使う。

その積み重ねが、生きづらさになります。

しかし、本当に苦しいのは、できないことだけではありません。

周囲と同じようにできない自分を、どう受け止めればよいのか。

そこに大きな葛藤があります。



「できない自分」を受け入れることは簡単ではない

障害を受け入れれば、前向きに生きられる。

できることへ目を向ければよい。

失ったものではなく、残されたものに感謝すればよい。

こうした言葉は、多くの場合、善意から語られます。

私自身も、できることに目を向けることは大切だと思います。

しかし、できない自分を受け入れることは、それほど簡単ではありません。

昨日までできていたことができない。

周囲の人が自然に行っていることが、自分には難しい。

努力しても、元の身体には戻れない。

何度練習しても、できないことが残る。

その現実に直面するたび、悔しさが戻ります。

障害受容とは、一度決意すれば終わるものではありません。

新しい場面に出会うたびに、受け入れ直すものです。

仕事を始めるとき。

旅行へ行くとき。

年齢を重ねたとき。

体力が落ちたとき。

周囲の人と比べたとき。

何度も心が揺れます。

生きづらさは、前向きな考え方だけで消えるものではありません。



社会が整っても、苦しみがすべて消えるわけではない

バリアフリーが進む。

合理的配慮が提供される。

障害者雇用が増える。

支援制度が充実する。

これらは、確実に人の生きづらさを減らします。

私も制度や周囲の支えによって、社会へ戻ることができました。

だから、社会環境を整える必要性を否定するつもりはありません。

ただし、社会が整えば苦しみがすべて消えるわけではありません。

職場で配慮を受けても、自分だけ違う働き方をしている申し訳なさが残ることがあります。

障害者雇用で働けても、以前のように働けない悔しさがあります。

家族に支えてもらえても、負担をかけている罪悪感があります。

設備が整っても、自分の身体が自由になったわけではありません。

制度は生きづらさを減らします。

しかし、人生そのものから苦しみを取り除くことはできません。

だから必要なのは、制度だけでなく、苦しみを抱えた人と共にいる関係です。



「生きやすい社会」という言葉が当事者を苦しめるとき

生きやすい社会をつくろう。

誰もが自分らしく生きられる社会へ。

この言葉は希望を与えます。

一方で、社会が「生きやすくなった」と評価されたあとも苦しんでいる人は、取り残されることがあります。

制度はある。

相談窓口もある。

配慮も受けている。

それなのに、なぜ苦しいのか。

周囲からそう思われるだけでなく、本人も自分へ問いかけます。

「これ以上、何を望むのか」

「支えてもらっているのに、なぜ前向きになれないのか」

「自分が弱いだけではないか」

しかし、支援を受けていても苦しいことはあります。

恵まれていても悲しいことはあります。

働けていても孤独なことがあります。

誰かに感謝しながら、同時に自分の人生を悔しく思うこともあります。

人間の心は、一つの感情だけでできていません。

生きやすい環境を整えることと、苦しみを感じる自由を認めること。

その両方が必要です。



多様性のある社会でも、人は傷つき、孤独になる

多様性を推進すれば、違いが尊重され、誰もが生きやすくなる。

そのように語られることがあります。

しかし、多様性のある社会でも、人は傷つきます。

価値観の違いは、理解だけでなく摩擦も生みます。

働き方の違いは、公平性への不満を生むことがあります。

必要な配慮が、周囲には特別扱いに見える場合があります。

異なる文化や経験を持つ人同士が、簡単に分かり合えるとは限りません。

多様性は、違いをなくすことではありません。

違いがある状態で、衝突や不快感を完全には避けられなくても、相手の存在を否定せずに共に生きることです。

本当に必要なのは、

「違いを理解しましょう」

という理想だけではありません。

理解できないことがあっても、排除しないこと。

納得できない部分があっても、対話を続けること。

不満を当事者個人へ向けず、仕組みの問題として考えること。

そこまで含めて、多様性や包摂を考える必要があります。

“日本は多様性を推進するべきか|中途重度障害者が「今は急ぐべきではない」と考える理由”



生きづらさを完全に排除しようとすると「苦しむ人」が排除される

社会は、問題を解決しようとします。

原因を特定する。

制度をつくる。

支援を提供する。

成果を測定する。

それは必要なことです。

しかし、人間の苦しみには、簡単に解決できないものがあります。

障害によって失った身体。

亡くなった家族。

戻らない時間。

変えられない過去。

完全には理解し合えない人間関係。

将来への不安。

これらは、制度で完全に解決できるものではありません。

解決できない苦しみを前にすると、社会はときに苦しんでいる人へ変化を求めます。

前向きになりましょう。

考え方を変えましょう。

できることに目を向けましょう。

感謝しましょう。

しかし、苦しみを乗り越えられない人にも、生きる権利があります。

前向きになれない日があってもよい。

障害を受け入れられない日があってもよい。

誰かを羨ましく思う日があってもよい。

それでも社会の一員でいてよい。

包摂とは、前向きになった人だけを受け入れることではありません。

苦しんでいる途中の人も、居場所を失わないことです。



「強く生きること」を当事者へ要求してはいけない

障害のある人が働き、社会参加する姿は、ときに感動的な物語として紹介されます。

障害を乗り越えた。

努力で社会復帰した。

周囲へ勇気を与えた。

もちろん、その努力は尊いものです。

しかし、当事者がいつも強くあることを求められてはいけません。

弱音を吐かない障害者。

明るい障害者。

周囲へ感謝する障害者。

配慮を受けながら成果を出す障害者。

そのような人だけが評価されると、苦しみを抱えている人は沈黙します。

本当は疲れている。

仕事を辞めたいと思うことがある。

障害のない人が羨ましい。

家族へ申し訳ない。

自分の身体を好きになれない。

そうした本音を持つことは、人間として自然なことです。

強く生きることを称賛するだけでなく、弱いままでも生きられる社会が必要です。



そもそも人間は、一人では生きられない

現代社会では、自立が重視されます。

自分で働く。

自分で生活する。

自分で選択する。

他人へ迷惑をかけない。

しかし、人間は本当に一人で生きているのでしょうか。

食べ物をつくる人がいる。

道路や電気を整える人がいる。

医療を提供する人がいる。

家族、同僚、地域の人がいる。

障害がなくても、私たちは誰かの仕事や支えによって生きています。

障害者だけが特別に依存しているのではありません。

依存の形が見えやすいだけです。

人は互いに支えられて生きています。

健康な人も、いつか病気になるかもしれません。

支える側の人も、支えられる側になる日があります。

自立とは、誰にも頼らないことではありません。

必要なときに助けを求め、同時に自分にできる形で誰かを支えることです。



昔の社会には、不完全でも人を抱える余白があった

昔の社会が、今より優しかったとは言い切れません。

障害者差別、隔離、女性への制約、地域からの排除など、深刻な問題がありました。

制度や人権の面では、現代の方が前進しています。

それでも私は、昔の地域や家業には、不完全な人を抱える余白があったのではないかと感じます。

仕事が遅い人。

身体の弱い人。

人づきあいが苦手な人。

変わった性格の人。

十分には働けなくても、できる仕事を任される人。

その人のすべてを理解していたわけではありません。

差別や偏見もあったでしょう。

それでも、

「あの人には、この仕事を頼もう」

「困っているから、少し助けよう」

「仕方がないから、みんなで支えよう」

という関係が存在していました。

現代は制度が整いました。

しかし、効率化と標準化によって、人を抱える余白が小さくなりました。

決められた速度で働けるか。

複数の仕事へ対応できるか。

自分で体調を管理できるか。

周囲へ迷惑をかけないか。

その基準から外れる人は、制度があっても居場所を失うことがあります。

昔へ戻る必要はありません。

しかし、現代の権利保障と、かつての不完全な助け合いを組み合わせることはできるはずです。



人生には、どうしても避けられない苦しみがある

どれほど社会が整っても、人は老います。

病気になることがあります。

大切な人との別れがあります。

夢がかなわないことがあります。

努力しても認められないことがあります。

人間関係が壊れることがあります。

自分自身を嫌いになる日もあります。

これらをすべて「社会の問題」として解決することはできません。

もちろん、社会が減らせる苦しみは減らすべきです。

差別。

不当な排除。

貧困。

制度の不備。

過重労働。

必要な配慮の欠如。

こうした苦しみを「人生は厳しい」と片づけてはいけません。

ただし、社会が改善してもなお残る苦しみがあることも認める必要があります。

その現実を認めることは、諦めではありません。

解決できない痛みを持つ人へ、無理に答えを押しつけないための誠実さです。



本当に必要なのは「苦しまない社会」ではなく「苦しんでも孤立しない社会」

私は、生きづらさのない社会を完全に実現することは難しいと思っています。

しかし、苦しんでいる人が孤立しない社会はつくれると思います。

働けない時期があっても、価値を否定されない。

体調を崩しても、戻る場所がある。

助けを求めても、弱い人と決めつけられない。

前向きになれなくても、急かされない。

できないことがあっても、できる役割を探してもらえる。

違いを完全に理解してもらえなくても、存在を尊重される。

必要なのは、生きづらさを感じない人をつくることではありません。

生きづらさを言葉にできる関係をつくることです。



障害者雇用も「苦しみをなくす制度」ではない

障害者雇用は、障害のある人が働く機会を得るために重要な仕組みです。

合理的配慮、業務設計、相談支援、家族や支援機関との連携によって、多くの人が社会参加できます。

しかし、障害者雇用は当事者のすべての苦しみを解決する制度ではありません。

採用されても不安はあります。

配慮されても悔しさは残ります。

働けても疲れます。

職場で役割を得ても、将来が怖いことがあります。

だから企業が目指すべきなのは、当事者を常に前向きで健康な状態にすることではありません。

調子が悪い日も含めて、長く働ける仕組みをつくることです。

困ったときに相談できること。

一時的に仕事を減らしても、再挑戦できること。

休んでも存在価値を失わないこと。

配慮と期待を両立すること。

本人の生活全体を想像すること。

障害者雇用について制度面から確認したい方は、次の記事もご覧ください。

“2026年7月に障害者法定雇用率2.7%へ|企業が今すぐ始める採用・定着・行政報告・受け入れ準備”

“障害者雇用とは何か|採用・合理的配慮・職場定着・家族連携を当事者が解説”

“障害者雇用で働き続けるということ|心・健康・孤独、そして社会を生き抜く尊さ



生きづらさを抱える人へ伝えたいこと

今、生きづらいと感じている人へ。

あなたが弱いからではありません。

社会に適応できないからでもありません。

努力が足りないからでもありません。

人間として、不確かな世界を生きているからです。

人生には、自分では選べないことがあります。

努力では変えられないことがあります。

受け入れられない日があります。

それでも、あなたの価値がなくなるわけではありません。

前へ進めない日は、立ち止まってもよい。

誰かを頼ってもよい。

答えを見つけられなくてもよい。

自分の人生を好きになれない日があっても、生きていてよい。

生きることは、常に希望を持つことではありません。

希望を失った日にも、もう一日を終えることです。



支える人へ伝えたいこと

家族、職場の同僚、管理職、支援者の方へ。

苦しんでいる人へ、すぐに答えを与えなくてもよいことがあります。

励まさなくてもよい。

前向きにさせなくてもよい。

問題を解決できなくてもよい。

ただ、

「苦しいのですね」

「今すぐ答えを出さなくても大丈夫です」

「一人で抱えなくてもよいです」

と伝えることが、その人を支える場合があります。

人は、理解されたから必ず立ち直るわけではありません。

しかし、理解されなくても一緒にいてくれる人がいることで、今日を越えられることがあります。



私は、障害のある人生を美化したくない

障害を負ったことで、大切なことに気づけた。

人の優しさを知った。

新しい人生を始められた。

それは事実です。

しかし、だから障害を負ってよかったとは簡単に言えません。

失ったものがあります。

今もできないことがあります。

悔しさがあります。

障害がなければと思う日があります。

私は、障害を美化したくありません。

同時に、障害のある人生を不幸だけで終わらせたくもありません。

苦しみがあることと、幸福を感じることは両立します。

できないことがあることと、価値があることも両立します。

悲しみを抱えながら、笑うこともできます。

人生は、幸福か不幸かの二択ではありません。

さまざまな感情を抱えながら、それでも続いていくものです。



社会を生き抜くことは、勝ち続けることではない

社会を生き抜く。

その言葉には、競争に勝つことや、困難を乗り越える強さが連想されるかもしれません。

しかし、私にとって生き抜くことは、勝ち続けることではありません。

できない自分を責めすぎずに一日を終えること。

助けを借りること。

休むこと。

失敗しても戻ること。

自分の価値を、仕事の成果だけで決めないこと。

誰かに支えられながら、自分も誰かへ小さなものを返すこと。

それが、生き抜くということです。



結論|この世は生きづらい。だからこそ、共に生きる意味がある

この世は、生きづらいものです。

障害のある人だけではありません。

健康な人も、働く人も、子どもも、高齢者も、誰もが何らかの苦しみを抱えています。

その苦しさをすべて消すことはできないかもしれません。

しかし、苦しんでいる人を一人にしないことはできます。

できない人を排除せず、役割を探すことができます。

助けを求めた人へ、手を差し出すことができます。

前向きになれない人を、急かさずに待つことができます。

多様性や包摂とは、生きづらさを感じる人がいなくなることではありません。

違う苦しみを抱えた人同士が、不完全なまま共に生きることです。

私は中途重度障害者になって、生きることの厳しさを知りました。

同時に、一人では生きられないことも知りました。

誰かに支えられること。

自分も誰かの役に立てること。

今日を終え、また明日を迎えること。

その一つひとつに、以前は気づかなかった尊さがあります。

人生は、生きやすくなければ価値がないのではありません。

苦しくても、迷っても、誰かと共に生きることには意味があります。

あなたは今、「生きづらさ」を自分だけの問題として抱えていませんか。

もしかすると必要なのは、もっと強くなることではなく、弱いままでも一緒に生きられる誰かと場所なのかもしれません。



この文章を、今苦しんでいる人へ届けてください

この記事を読んで、

「自分だけではなかった」

「前向きになれない自分を責めなくてよいと思えた」

「支えるとは何かを考え直した」

そう感じた方は、この文章を保存し、必要としている人へ共有してください。

生きづらさを抱えている本人。

障害や病気のある家族を支えている人。

職場でどう接すればよいか悩んでいる管理職。

前向きになれない自分を責め続けている人。

あなたの一度の共有が、孤独の中にいる誰かへ届くかもしれません。



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きれいな成功物語だけではなく、迷い、悔しさ、弱さを抱えながら生きる現実を言葉にしています。

伝えたいのは、

「もっと頑張れ」

ではありません。

苦しいと感じてもよいこと。

前向きになれない日があってもよいこと。

助けを求めても、あなたの価値は失われないこと。

人生は元に戻らなくても、別の形でつくり直せることです。

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