資本主義に飲み込まれた人間は、このまま繁栄し続けるべきか――環境に熱心ではない私の“それでも消えない疑問”の正体

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私は環境問題について、いわゆる「熱心な人」ではない。
毎日エコバッグを徹底しているわけでもないし、プラスチックの話題で怒りが湧くタイプでもない。
むしろ私は、目の前の生活を回すだけで精一杯な日が多い。中途重度障害者として生きる私は、身体の都合と社会の都合のあいだで、日々いろいろな“折り合い”をつけながら暮らしている。
それでも。
ふと、何の前触れもなく、頭をよぎる問いがある。
人間は、このまま繁栄し続けるべきなのか?
しかもこの問いは、年々大きくなっていく。
ニュースで気候変動を見るからでもない。
誰かに正義を教え込まれたからでもない。
もっと静かな場所から、じわりと湧いてくる。
まるで、心の底で何かが「おい」と呼んでいるみたいに。
私は日本人だ。
そして私は思う。もう縄文には戻れない。
戻れないというのは、時代的に無理という意味だけではない。
私たちの身体感覚、価値観、時間の使い方、欲望の構造そのものが、すでに資本主義に深く侵食されている。
「戻りたい」と口では言えても、私たちは“戻れない身体”になってしまった。
では、資本主義に飲み込まれた人間が、このまま繁栄し続けるべきか。
この問いを、私は水平思考で、表層/裏/根源の三層に分けて考えてみたい。
感情論でも、政治的主張でもなく、日本人的な視点――自然との関係を含めた思考の過程そのものを、丁寧に言語化していく。
0. 先に結論を書く(読者が迷子にならないために)
私は今の時点で、こう考えている。
「繁栄し続けるべきか?」という問いの正体は、“環境への関心”ではなく、
**人間が自然との関係を壊したまま、さらに拡張しようとしていることへの“直感的な恐怖”**である。
縄文に戻れないのは、技術や制度の問題ではなく、欲望の運転方法(OS)が変わってしまったからである。
だから必要なのは「繁栄を止める/続ける」の二択ではない。
繁栄の意味を“自然との関係を修復できる形”に再定義し直すことだ。
私は、繁栄そのものを否定したいわけではない。
ただ、**今の繁栄は“自然から借金して成立している繁栄”**に見える。
そして借金は、返せないところまで膨らむと、取り立てではなく“崩壊”として返ってくる。
この恐怖が、私の中で年々強くなる。
それが今日の主題だ。
1. 表面的な理由:なぜこの問いが頭をよぎるのか(生活者としての感覚)
1-1. 「環境問題に熱心ではない」人ほど、突然この問いに襲われる
環境問題に熱心な人は、情報を追い、対策を学び、行動し、社会を変えようとする。
それは立派だ。尊い。
一方、私のように「そこまで熱心ではない」人間は、日常の中で環境を“意識していない”。
だからこそ、ある瞬間、ふいに自分の足元が抜ける。
この生活は、どこから来ている?
この便利さは、何を代償にしている?
この快適さは、何を削って成立している?
普段考えないからこそ、たまに見えてしまったときの衝撃が大きい。
たとえば、冬なのに妙に暖かい日。
台風が妙に“狙ってくる”ような気配。
海のニュース、山のニュース、作物のニュース。
そして何より、世界の空気の不穏さ。
この問いは、知識から生まれるというより、身体感覚から生まれる。
1-2. 「もう縄文には戻れない」という、諦めのような確信
縄文。
それは日本人にとって、ただの歴史ではない。
ある種の“原風景”だ。
森と海、循環、季節、祈り、共同体、争いの少なさ。
そういう言葉がまとわりつく。
しかし私は思う。
私たちは縄文を「美しい物語」としては語れても、生き方としては回収できない。
なぜなら――
我々は、電気のない夜に耐えられない
医療のない世界に戻れない
物流のない生活に耐えられない
一度知った快適さを、手放せない
これは道徳の問題ではない。
依存の問題だ。
私たちの身体は、すでに現代文明に依存している。
それを「悪」と決めつけるつもりはない。
ただ、事実として、戻れない。
だから、問いはこう変形する。
「戻れないなら、このまま行くしかないのか?」
「このまま行って、どこに着くのか?」
1-3. 生活者としての直観:「増え続ける」が、もう怖い
人間の繁栄とは、基本的に「増え続ける」ことだ。
人口が増える
便利が増える
生産が増える
消費が増える
エネルギーが増える
情報が増える
スピードが増える
増えることは、豊かさの証だった。
しかし、どこかで増えることが“脅威”に変わった。
増えるのに、幸せが増えない
増えるのに、心が満たされない
増えるのに、争いが減らない
増えるのに、孤独が減らない
そして最後に、こうなる。
増えるのに、自然が壊れる
ここまで来ると、増えることは、もはや祝福ではない。
呪いのように見えてくる。
2. 裏の真の理由:問いの中心は「環境」ではなく「欲望のOS」だ
ここから一段深く潜る。
私が思うに、この問いの中心にあるのは、環境問題ではない。
中心にあるのは、欲望の運転方法――人間のOSが“増殖モード”に固定されてしまったことだ。
2-1. 資本主義の恐ろしさは「悪意」ではなく「自動運転」にある
資本主義を悪魔化する議論は簡単だ。
金がすべて、強者が勝つ、格差が広がる、地球が壊れる。
しかし私は、もっと恐ろしい点があると思っている。
それは資本主義が、人間の善意すら燃料にしてしまうことだ。
家族のために頑張る → もっと働く → もっと消費する
誰かを助けたい → もっと稼ぐ → もっと生産する
安心したい → もっと貯める → もっと競争する
悪意がなくても、システムが回る。
回るどころか、加速する。
つまり資本主義は、「誰かが止めよう」としない限り止まらない構造を持つ。
そして怖いのは、「誰かが止めよう」とすると、今度は生活が壊れることだ。
止めた瞬間、仕事が消え、収入が消え、サービスが止まり、人が困る。
だからみんな、止められない。
止められないまま、加速する。
これはもう、善悪の議論ではない。
構造の議論だ。
2-2. 「繁栄」は宗教に近い――疑うことが禁忌になっている
繁栄という言葉には、宗教性がある。
繁栄=善。
衰退=悪。
成長=正義。
停滞=罪。
この価値観が、あまりにも深く社会に埋め込まれている。
だから「人間は繁栄し続けるべきか?」と問うと、
どこかで「そんなことを考えるのは不謹慎だ」という空気が出る。
しかし本当は逆だ。
疑えないものほど、宗教に近い。
そして宗教化した価値観は、現実が壊れても止まらない。
繁栄が宗教になったとき、何が起きるか。
自然が壊れても「成長しろ」
心が壊れても「生産しろ」
家族が壊れても「競争しろ」
共同体が壊れても「効率化しろ」
これは、私が障害者になってよく分かったことでもある。
私は事故(あるいは病)で、身体が壊れた。
すると社会は、私にこう迫る。
生産性をどうする?
コストをどうする?
価値をどう証明する?
私の身体の痛みより先に、システムが私を評価する。
その冷たさに触れるたび、私は思う。
人間は、繁栄のためなら、人間すら消費する。
この感覚が、環境の話と地続きであることに気づく。
自然だけではない。
人間もまた、燃料にされる。
2-3. 「縄文に戻れない」の本質:自然観ではなく“時間観”が変わった
縄文的な生き方を支えていたのは、技術水準ではない。
私はそれを、時間観だと思っている。
縄文的時間観とは、たとえばこういうものだ。
未来を“征服”しない
自然のリズムに合わせる
早くすることが善ではない
今が循環の一部である
一方、資本主義の時間観はこうだ。
未来を“獲得”する
自然のリズムをねじ曲げる
早いほど勝ち
今は未来のための手段
この時間観の違いが、戻れない理由の核心だ。
私たちは、未来を「奪い取るもの」として扱うようになった。
そして未来を奪い取るには、自然は邪魔になる。
季節は遅い。
森は遅い。
海は遅い。
土は遅い。
だから速くする。
肥料、農薬、工場、物流、冷凍、データ、AI。
全部、自然の遅さを“無視するための道具”でもある。
この時点で、自然との関係はすでに壊れている。
壊れた上で、さらに繁栄しようとしている。
だから私は怖いのだ。
3. 根源的な自然との関係:日本人的な視点で見る「繁栄」の違和感
ここからが本題だ。
日本人的な視点とは何か。
私はそれを、単なる愛国ではなく、自然との関係の感覚だと思っている。
3-1. 日本の自然観は「支配」ではなく「共在」に近い
日本には、八百万の神という感覚がある。
神社は森にあり、山にあり、海辺にある。
自然は資源である前に、“いる”。
私はこの「いる」という感覚が重要だと思う。
自然は物ではない。
自然は誰かの所有物ではない。
自然は背景ではない。
自然は「関係の相手」だ。
だから本来、日本人的な感覚では、自然を支配するときに、どこかで怖さが生まれる。
怖さとは罪悪感ではない。
**畏れ(おそれ)**だ。
畏れとは、相手が自分より大きいことを知っている感覚。
畏れがあると、人間は無限に踏み込まない。
踏み込んだら、返ってくることを知っている。
ところが資本主義は、畏れを弱める。
畏れより、利益を優先させる。
関係より、交換を優先させる。
その結果、日本人的な感覚にとっての“禁忌”が解除されていく。
山を削る
川をねじる
海を埋める
森を切る
これが「できてしまう」こと自体が、私には怖い。
3-2. 「繁栄=勝利」という世界観は、自然観と相性が悪い
繁栄が勝利である世界観は、戦争と似ている。
勝つ、奪う、広げる、征服する。
しかし自然は、勝ち負けの相手ではない。
勝とうとした瞬間に、関係が壊れる。
自然相手に勝利しようとする態度は、
最終的に「自然の反撃」という形で返ってくる――
そういう物語は、日本の神話や民話にも多い。
つまり日本人的な感覚では、
自然を相手に“勝ち続ける”ことは不可能だという直観がある。
だから私は、「人間が繁栄し続けるべきか」という問いを持つ。
それは倫理ではなく、自然観の直観から来る。
3-3. 自然との関係は「回復できるか」がすべて
ここで私は、ひとつの定義に辿りつく。
人間の繁栄が続くべきかどうかは、自然との関係が“回復可能”かどうかで決まる。
回復可能とは何か。
壊しても元に戻る、という意味ではない。
自然は一度壊れたら、同じ形には戻らないことも多い。
回復可能とは、もっと広い意味だ。
人間が自然との関係を学び直せる
自然に対する畏れを取り戻せる
取り返しのつかない破壊を減らせる
循環を“設計”に組み込める
つまり回復可能性とは、関係を修復する能力だ。
ここで私は、障害者としての経験とつながる。
私は身体を損傷し、回復不可能な部分を抱えた。
しかしそれでも、生き方は回復できた。
できることを変え、環境を変え、習慣を変え、支え方を変え、
「壊れたままでも成立する構造」を作った。
自然との関係も同じではないか。
自然を昔に戻せないなら、
壊した上で、関係を回復する構造を作るしかない。
4. では「繁栄し続けるべきか?」への私の答え
ここまで考えた上で、私はこう言いたい。
繁栄を続けるかどうかではない。
“繁栄の定義”を変えない限り、続ける資格がない。
資格という言葉は強いが、私は敢えて使う。
なぜなら、今の繁栄は、自然から借りているだけで、返済計画が曖昧だからだ。
では、繁栄の定義をどう変えるのか。
4-1. 「増える繁栄」から「壊れない繁栄」へ
増えることを繁栄と定義すると、自然は必ず壊れる。
だから繁栄をこう定義し直す。
壊れない
続けられる
回復できる
関係を守れる
これは、障害者としての人生にも似ている。
私は無理をすれば一時的に“成果”を出せる。
しかし壊れたら終わる。
だから私は、壊れない設計を優先する。
社会も同じだと思う。
一時的に伸びても、壊れたら終わる。
自然を壊せば、生活の土台が沈む。
4-2. 「便利」より「復元」へ――取り返しがつく世界を残す
資本主義は便利を増やす。
しかし便利は、しばしば復元不能の代償で成り立つ。
ここで必要なのは、便利を否定することではない。
便利の中に、復元可能性を埋め込むことだ。
エネルギーを使うなら、循環する形で
資源を掘るなら、戻す形で
消費するなら、再生する形で
理想論に聞こえるかもしれない。
しかし私は、理想論だと思っていない。
なぜなら、復元不能な世界は、障害者に最も厳しいからだ。
一度壊れたら戻らない社会は、
「戻れない人間」を簡単に切り捨てる。
だから私は、復元可能性を社会の中心に置きたい。
4-3. 日本人的な希望:畏れを取り戻すことは、弱さではない
最後に、私は日本人的な希望を置いて終わりたい。
畏れを取り戻すことは、弱さではない。
畏れは、関係を守る力だ。
人間が自然に対して畏れを持てるなら、
繁栄は“勝利”ではなく、“共在”として続けられる。
縄文に戻れない。
その事実は変わらない。
しかし私たちは、縄文の「自然を相手にし続ける感覚」だけは取り戻せるかもしれない。
それが私の答えだ。
おわりに:この問いが消えないのは、あなたが冷たいからではない
もしあなたも、環境問題に熱心ではないのに、
「人間は繁栄し続けるべきか?」という問いが頭をよぎるなら。
それはあなたが冷たいからではない。
むしろ逆だ。
あなたの中に、まだ自然との関係を感じ取るセンサーが残っている。
資本主義に飲み込まれた身体で、
それでもなお、畏れが消えない。
私はそれを、希望の芽だと思いたい。
繁栄を止めるか、続けるか。
そんな単純な議論を超えて、
私たちは「繁栄の定義」を書き換える地点に来ている。
そしてその書き換えは、
誰か偉い人の政策だけでは起きない。
生活者一人ひとりが、自分の欲望のOSを見つめ直すところから始まる。
私も、その一人として。
今日もこの問いを抱えたまま、生きていく。
そして願う。
自然との関係を回復できる形で、人間が続いていく未来を。

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