窓の外は、今日もきれいです。
冬に向かう空の青さも、雲のかたちも、電線にとまる鳥の首のかしげ方も、どうしようもなく「世界の側」は魅力的だと感じます。
けれど、ニュースを開き、人事のメールを読み、制度の書類とにらめっこをすると、ため息が漏れる。
> 「やっぱり、社会はクソだ。」
十年以上、中途重度障害者として、労働者として、市民として生きてくる中で、
私は何度も何度も、このフレーズを心の中でつぶやいてきました。
そして気づきます。
> 世界はこんなに美しくて魅力的なのに、
社会がここまでクソに見えるのは、
最終的に「人間がクソ」という結論になるのだろうか?
この記事は、この問いを真正面から扱う、長い長いエッセイです。
「人間はクソだ」という感覚を、感情の吐き捨てで終わらせずに解剖すること
中途重度障害者として体験してきた現場から、「社会のクソさ」と「人の優しさ」の両方を見つめ直すこと
そして最後に、「もし仏陀がこの結論を読んだら、どんな言葉を紡ぐだろう?」という視点で、この問いをもう一段深く掘り下げること
を目的にしています。
「社会はクソ」という感覚を抱えたまま、それでも人間や世界を諦めずに生きていきたい人へ。
少し長いですが、どうか肩の力を抜いて読み進めていただけたら嬉しいです。
—
1|世界はなぜ、こんなにも美しいのか
まず最初に確認しておきたいのは、「世界は美しい」という感覚は、決してロマンチックなポエムではない、ということです。
身体が思うように動かなくなってからこそ、私はむしろその美しさに、しょっちゅう圧倒されるようになりました。
朝、カーテンの隙間から差し込む光が、床に細い帯を作る瞬間
点滴スタンドを押しながら廊下を歩いているとき、窓の向こうに見える曇天の微妙なグラデーション
人の手の温度。看護師さんが「ちょっと失礼しますね」と触れた指先の確かさ
妻が笑うとき、目尻に寄る小さなしわ
どれもニュースにはなりません。
SNSのトレンドにも、一切引っかからないでしょう。
それでも、それらを「美しい」と感じるたびに、私は強く思います。
> 「世界そのものには、悪意がない。」
洪水も、地震も、病気も、もちろんつらい。
しかし自然現象そのものには、「お前を苦しめてやろう」という意志はありません。
風はただ吹き、雨はただ降り、細胞はただ増えたり壊れたりするだけです。
残酷さも優しさも、そこに人間の物語を重ねた私たちが見ている影であって、
世界そのものは、ただ淡々と「そう在る」だけなのかもしれません。
にもかかわらず、私たち人間は、その世界の中に「意味」と「物語」を作ります。
正義と悪
勝者と敗者
成功と失敗
普通と異端
こうしたラベルと枠組みによって、世界を理解し、同時に窮屈にもしてしまう。
その結果として、ときに互いを殴り合い、ときに助け合いながら、どうしようもなく複雑な「社会」を編んでしまうのです。
世界の美しさと、社会のクソさ。
この落差こそが、私たちを疲れさせ、そして考えさせます。
—
2|「社会はクソだ」と感じるとき、私たちは何を見ているのか
では、「社会はクソだ」と私たちが口にするとき、その内訳は何でできているのでしょうか。
感情のまま叫んでいても、しんどさは減りません。
一度、冷静に分解してみます。
2-1 制度の冷たさ——「設計された機械」としての社会
中途重度障害者として申請書と格闘していると、こんなことを何度も味わいます。
同じ状態でも、書類の書き方一つで支援の可否が変わる
目の前の担当者は優しいのに、「規定ですから」とそれ以上には踏み込めない
「あなたのためです」と言いながら、実際には予算の都合しか見ていないようにしか思えない運用
窓口の人の人柄が冷たいわけではない。
むしろ「こんな制度の中でよく笑顔でやっているな」と思うような、真面目で誠実な人たちが多いとすら感じます。
それでも、私たちはときに「制度はクソだ」「社会は冷たい」と感じざるを得ない。
ここで感じているのは、個々の人間の悪意ではなく、
制度という巨大な機械
予算やルールによってガチガチに固められた運用
責任が分散したまま誰にも止められない歯車
こうした「設計」の問題なのだと思います。
2-2 組織の残酷さ——「いい人たち」が集まるほど、なぜか歪む
病院、企業、学校——どこに行っても、似たような場面に出会います。
現場の声を聞かないまま、突然決まる人員削減
メンタルや体調が限界でも、「自己責任」で片づけられる働き方
「多様性」「インクルージョン」を掲げながら、実際には“扱いやすい多様性”だけが歓迎される現場
ここでの矛盾は、とても厄介です。
> 「個々人はいい人なのに、組織になると一気にクソ化する」
この構図に、心当たりのある人は多いはずです。
誰か一人を悪者にできない。
だからこそ、余計にしんどい。
「誰のせいとも言いがたいクソさ」が、じわじわと現場をむしばんでいきます。
2-3 SNSと情報空間の歪み——「正しさ」と「暴力」が同居する場所
インターネットは、私を含め、多くの障害者にとって生命線でもあります。
外に出られなくても、社会とつながれる窓であり、仕事の場でもある。
けれど同時に、そこもまた「社会のクソさ」が凝縮された場所です。
一部の過激な言葉が注目を集め、穏やかな声がかき消される仕組み
誰かの失敗や不適切発言が、文脈を切り取られ「燃料」として消費される文化
「正しいことを言っている側」が、いつの間にか他者を踏みにじる側に回っている逆転
ここでは、技術の設計と、人間の承認欲求と、商業モデルの論理が強烈に絡み合っています。
アクセス数
滞在時間
広告収入
こうした数字を最大化する仕組みは、しばしば「刺激的なもの」「怒りを煽るもの」に報酬を与えます。
その結果として、「正義」を語っているはずの人の言葉が、いつの間にか暴力へと変質していく——
そんな光景を、私たちは何度も目撃してきました。
—
3|「人間個人」に戻ったときに見えてくる矛盾
ここまで見てきたものをまとめて、「だから人間はクソなんだ」と断じてしまうのは、簡単です。
けれど私は、どうしてもそれだけでは終われないと感じています。
3-1 クソな自分を、私はよく知っている
まず、認めなければならないことがあります。
> 私自身も、かなりの頻度で「クソな自分」と出会う。
体調が悪い日に、家族の何気ない一言に過剰に反応してしまう
SNSで誰かの失敗を見て、「自分より下だ」と一瞬だけ安心してしまう
社会の不条理を批判しながら、自分もまた誰かをラベリングしていることに気づく
障害者であろうがなかろうが、「被害者」と「加害者」の境界線は、驚くほどあいまいです。
誰かに傷つけられた直後に、
別の誰かを刺すような言葉で追い詰めてしまう——
そんなことを、人生で一度もしたことがない人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
「人間はクソだ」と言うとき、そこには自分自身も含まれている。
だからこの言葉は、単なる他罰ではなく、自罰でもあります。
3-2 それでも、人間はときどき美しい
しかし同時に、私はこうも感じています。
> 「世界が美しいのと同じくらい、人間もときどき、美しい。」
病室で、「今日は天気いいですよ」と何気なく話しかけてくれた清掃スタッフさん
忙しいのに、説明の途中で一度座り直し、目線を合わせてくれた医師
レジで財布の中身に困っている高齢者の後ろで、黙って待つだけの人たち
SNSで炎上している誰かに対し、目立たないけれど「生きていてくれたらそれでいい」と書き込む匿名のアカウント
こうした小さな行為は、ほとんどの場合ニュースにはなりません。
バズることもない。
誰からも「いいね」を押されないまま、ふっと生まれて消えていく優しさです。
この「バズらない優しさ」を思い出すたびに、私は感じます。
> 「人間がクソ」という総括は、どこか真実を取りこぼしている。
人間は確かにクソです。
しかし同じだけ、あるいはそれ以上に、妙に尊い存在でもあります。
この両方を同時に見てしまうからこそ、「人間とは何者なのか」という問いは、いつまでも終わらないのかもしれません。
—
4|クソさを増幅するのは「人間」よりも「距離」と「設計」
ここで、少し視点を変えてみます。
私たちが日常的に「クソだ」と感じる多くの出来事は、
本当に「一人の人間の悪意」だけで説明できるでしょうか?
むしろ、こう言ったほうが実態に近いかもしれません。
> クソさを増幅しているのは、
「人間そのもの」よりも、
「距離」と「設計」である。
4-1 「顔の見えない相手」との取引が生む鈍さ
たとえば、大企業の値上げ決定。
私たちは、つい「経営陣はクソだ」「会社は庶民のことを何も考えていない」と言いたくなります。
しかし、その決定を行った会議の中身を細かく追っていくと、
為替や原材料費の高騰
株主への説明責任
従業員の雇用維持
競合他社の動向
など、さまざまな要素が絡み合っています。
その中で、「誰か一人だけが極悪人」という構図は、意外と少ない。
問題は、こうした意思決定が行われるとき、
そこにいる誰一人として、値上げによって困る具体的な個人の顔を想像していない
「困る人がいる」ということは頭では分かっていても、「自分の責任」としては感じにくい
という「距離の問題」があることです。
顔が見えないから、想像力は鈍ります。
鈍った想像力のまま行われた意思決定が、現場にとって「クソ」に感じられる。
ここで悪役にされるべきは、
必ずしも「人間」そのものではなく、
顔を見えなくする構造のほうなのかもしれません。
4-2 「誰の責任でもない」という暴力
もうひとつの問題は、「責任が薄まる設計」です。
全員が少しずつ関わっているが、誰も最終責任者ではないプロジェクト
「ルール通りにやった」ことで、かえって誰かが深く傷つく事例
委員会、会議体、審査会……名前は違っても、「結局どこで物事を止められたのか」が分からない構造
ここには、「悪人の不在」と「構造の暴力」が潜んでいます。
この暴力は、人間が“ちょっとだけ弱い”ことと、簡単に結託します。
自分一人だけ異議を唱える勇気が出ない
生活を守るために、正しさより保身を選んでしまう
「ここで声を上げても変わらない」と学習してしまっている
そうやって、
> 「誰かが止められたかもしれないけれど、誰も止めなかった」
という選択が積み重なっていきます。
その結果として立ち上がってくるのが、「社会はクソだ」という風景です。
ここで私たちは、二つの事実を直視せざるを得ません。
1. 人間は弱い。だから、クソな決定に加担してしまう。
2. その弱さを前提に設計されていない制度と組織は、クソさを増幅させる。
「人間がクソ」という結論は、半分だけ当たっています。
残りの半分は、
> 「人間の弱さを前提にしない設計がクソ」
なのです。
—
5|中途重度障害者として見えてきた、人間の「二重露光」
障害を負ってからの十余年、私は社会の “クソさ” と “優しさ” の両方を、かなり極端な形で浴びてきました。
5-1 「社会はクソだ」と思った場面たち
たとえば、こんな場面です。
退院後、職場復帰の相談をしたとき、「戦力にならないなら難しいですね」と真正面から言われたこと
手帳や年金の申請で、「本当にこんなに困っているんですか?」と疑うような視線を向けられたこと
バリアフリーと謳う施設で、肝心なエレベーターが故障したまま長期間放置されていたこと
これらは、一つひとつがじわじわ効いてきます。
「生きていても邪魔なんじゃないか」
という声が、心の奥でこだまします。
この瞬間、「社会はクソだ」という言葉は、単なる悪口ではなく、
生存ギリギリの叫びに近いものになります。
5-2 それでも、「人は捨てたものじゃない」と思えた瞬間
しかし、同じ人生の中で、こんな場面もありました。
本来の業務外なのに、申請書の書き方を一緒に考えてくれた役所の職員さん
忙しいシフトの合間に、「今日は調子どうですか」と一言だけ聞いてくれた看護師さん
仕事ができなくなったとき、「あなたがいてくれてよかった」と言ってくれた同僚
社会全体はクソだと感じていても、
目の前の「誰か」は、ときどき驚くほど優しい。
この二つの像が、私の中ではいつも「二重露光」のように重なっています。
> 「社会」と「人間個人」は、同じではない。
だが、完全に別物でもない。
社会は、人間が作っている。
けれど一人ひとりの人間は、社会という巨大な構造から影響を受け続けている。
この双方向性こそが、問題をややこしく、そして興味深くしているように思います。
—
6|「人間がクソ」という諦め方と、もう一段深い諦め方
では、私たちはこの矛盾と、具体的にどう付き合えばよいのでしょうか。
6-1 安易な諦め:「人間がクソだから、仕方ない」
もっとも簡単な答えは、こうです。
> 「人間はクソだ。だから社会がクソなのも当然だ。」
この諦め方は、一見クールに見えます。
自分の傷つきを笑い飛ばせる
「期待しなければ失望しない」と割り切れる
「どうせ変わらないし」と距離を置ける
しかし、この態度には大きな問題があります。
> 「自分が誰かに優しくする理由」も同時に失ってしまうこと。
人間がクソで、世界は理不尽で、どうせ何も変わらないのだとしたら——
なぜ、わざわざ自分だけが少し手間のかかる優しさを選ぶ必要があるのでしょう?
「人間がクソ」という総括は、
世界のクソさに対する免罪符であると同時に、
自分が誰かを傷つけたときの言い訳にもなってしまいます。
6-2 もう一段深い諦め:「クソであることを前提に設計する」
私がたどり着いたのは、もう少し違う種類の諦めです。
> 「人間はクソな部分を持っている。
そのクソさを前提にしながら、
それでもマシな選択をし続ける設計を考えるしかない。」
これは、性善説でも性悪説でもありません。
もっと生活臭のある、現実的な諦め方です。
人は疲れているとき、他人にきつく当たってしまう
→ だからこそ、「休んでいい」「頼っていい」仕組みを作る必要がある。
人は目の前の損得に流されやすい
→ だからこそ、長期的にはそちらの方が得になるような制度設計を工夫する。
人は自分の責任を軽く見積もりがち
→ だからこそ、「誰がどこで止められたのか」が分かる透明性を上げる。
こうした設計は、一人ではできません。
政治や行政、企業やNPO、地域コミュニティ——さまざまな場で少しずつ試行錯誤するしかない。
しかし、そのどの現場でも共通して大切なのは、
> 「人間を、神様扱いしないこと」
だと思います。
私たちは優しさも持っているが、
同時に弱さとクソさも抱えた存在にすぎない。
その前提に立たない「理想論的な制度」や「きれいなスローガン」は、
現場に降りてきた瞬間に、たいていクソな結果を生みます。
—
7|結論|世界は美しく、社会はクソで、人間はおもしろい
ここまでの議論を、あえて乱暴に一文でまとめてみます。
> 「世界は美しく、社会はたしかにクソな面が多い。
それでも人間は、“クソさ込み”で、最後まで付き合ってみる価値があるくらいには、おもしろい。」
「おもしろい」というのは、
「予測不可能で、時々どうしようもなく愛おしい」という意味です。
障害を負い、何度も「社会なんて燃えてしまえ」と思いました。
それでも今日も、私はこうして文章を書いています。
誰か知らない人が、
スマホの小さな画面でこの文字を追ってくれているかもしれない。
その事実だけで、
> 「人間も捨てたものじゃないな」
と、少しだけ思えてしまうのです。
—
8|クソさに呑まれず、美しさを諦めないための小さな実践
最後に、自分へのメモも兼ねて、
「クソな社会」と付き合いながら生きていくための、小さな指針を書いて終わりにします。
8-1 世界の美しさを、意識して取りにいく
朝の光を見る時間を、数十秒でいいから確保する
人の手の温度や、声のトーンに注意を向ける
「今日きれいだったもの」を一つだけ、日記やSNSに書き留める
社会のニュースばかり見ていると、
世界の美しさのほうがノイズのように感じられてきます。
意識して「拾いにいく」ことで、
心のバランスを、ほんの少し取り戻せる瞬間があります。
8-2 「バズらない優しさ」を、自分の半径で設計する
法律や制度を一晩で変えることはできなくても、
目の前の人の話を5分だけ長く聞くことはできる。
会社や組織をすぐに変えられなくても、
自分のチームの中だけで「しんどい」と言いやすい雰囲気を作ることはできる。
社会全体の暴力性を止められなくても、
自分だけは「燃えやすい話題」にむやみに薪をくべないと決めることはできる。
それは世界を救うほどのインパクトはないかもしれません。
それでも、自分と、半径数メートルの世界を、
ほんの少しだけマシにしてくれるはずです。
8-3 「人間はクソだ」という言葉を、使うタイミングを選ぶ
この言葉は、とても強い。
だからこそ乱発すると、自分自身を傷つける刃にもなります。
心が限界のとき、愚痴として吐き出すのはアリだと思う。
でも、人を諦めるための決め台詞として多用しすぎると、
自分が誰かに優しくする理由も同時に諦めてしまう。
だから私は、
> 「今日はどうしようもなく人間がクソに見える日だ」
と認めた上で、
翌朝には少しだけ言い直せる余白を残しておきたいのです。
> 「それでも、おもしろいところもあるよな。」
と。
—
9|もし仏陀がこの結論を読んだなら——仏教的まなざしからの補足
ここまでの結論を、もし仏陀がどこかで静かに読んだとしたら。
どんな顔をして、どんな言葉を紡ぐだろうか。
歴史的な仏典の正確な引用ではなく、
一人の中途重度障害者ブロガーによる、
仏陀への「勝手なインタビュー」として読んでください。
9-1 仏陀は、まず「苦」を否定しない
仏教は、最初の一歩に「四苦八苦」を置きます。
生まれる苦
老いる苦
病む苦
死ぬ苦
愛別離苦(愛する人と別れる苦)
怨憎会苦(嫌なものと共にいる苦)
求不得苦(求めても得られない苦)
五蘊盛苦(自分そのものが思うようにならない苦)
私が「社会はクソだ」と感じたとき、その裏側には必ず「苦」がありました。
不条理な制度にぶつかる苦しみ
組織の冷たさに打ちのめされる苦しみ
人としての尊厳を否定されるように感じる苦しみ
仏陀はおそらく、こう言うでしょう。
> 「苦しんでいるときに、世界を美しいと思えないのは当然だ。
『社会はクソだ』と叫ぶ心も、まずはそのまま、苦として認めてよい。」
苦を「そんなこと考えるべきではない」と否定しない。
むしろ、そこからしか始まらないと教える。
この一点だけでも、私は少し救われる気がします。
9-2 「人間がクソ」という見立てを、少しだけ回転させる
では、「世界は美しく、社会はクソで、人間はおもしろい」という私の結論を見て、
仏陀ならどう評価するでしょうか。
こんなふうに微笑みながら言う姿が、目に浮かびます。
> 「人は、クソなものをクソと見抜く力を持っている。
それ自体が、すでに目覚めの芽だ。」
苦しみを苦しみと認識すること。
不条理を「不条理だ」と言語化すること。
「これはおかしい」と感じる感性。
それらは、ただの愚痴や悪口ではなく、
「目が覚めかけている証拠」でもあります。
仏教の「縁起」の考え方からすれば、
「社会のクソさ」も、「人間のクソさ」も、固定した実体ではありません。
無数の条件が重なって、
たまたま今、そう見えているにすぎないもの。
仏陀ならきっと、こう付け加えるでしょう。
> 「クソさを見抜いた目で、その裏にある条件の網も見てごらん。」
誰かの冷たい対応の背後にある、その人自身の疲労や恐怖。
制度の不条理の背後にある、予算や人口構成や価値観の変化。
自分の中の醜い感情の背後にある、満たされなかった欲求や、過去の傷。
「人間がクソだ」という一枚札のラベルを、
少しだけ丁寧にめくってみる。
そこに、仏陀の視線は向いている気がします。
9-3 仏陀が差し出すのは「免罪符」ではなく「練習問題」
もし仏陀が私に語りかけるとしたら、
こんなふうな言葉を渡してくるかもしれません。
> 「人は弱い。だからクソなことをしてしまう。
その事実を責め立てるよりも、その弱さごと包む術を、一緒に考えてみよう。」
仏教には「慈悲」という言葉があります。
慈:相手が幸せであってほしいと願う心
悲:相手の苦しみを、自分のことのように感じる心
「人間がクソだ」と言いたくなる相手にも、
その人なりの「苦」と「弱さ」があると想像してみること。
これは決して簡単ではありません。
理不尽のど真ん中にいるときには、なおさらです。
だから仏陀は、こう続けるのではないでしょうか。
> 「一度でうまくやろうとしなくてよい。
一人に対して、ほんの一瞬だけでもよい。
クソだと思う相手の“苦”を想像しようとした、その試み自体が、修行なのだ。」
これは、誰かの加害をなかったことにする話ではありません。
責任を問うことや、構造を変えようとすることと、
同じ場所に「慈悲」という別の軸を立ててみる、という提案です。
9-4 「世界は美しい」という感覚を、仏陀はどう見るか
最後に、「世界は美しい」という私の感覚そのものについて。
仏陀は、世界を「無常」と見た人です。
すべては移ろい、変わり続け、永遠に留まるものはない、と。
でも、だからこそ——
カーテンの隙間から差し込む光も、
誰かの指先のぬくもりも、
たった一度きりの「今日」という日にしか現れません。
無常だからこそ、世界はいっそう美しい。
そして、無常だからこそ、社会のクソさもまた「絶対ではない」と言えます。
仏陀はきっと、こんなふうにまとめるでしょう。
> 「世界の美しさに気づけるあなたの心も、
社会のクソさに怒るあなたの心も、
どちらも、目覚めにつながる大切な感受性だ。
その両方を捨てずに、
ただ少しずつ、賢さと優しさの方へ向けていきなさい。」
世界は、美しい。
社会は、たしかにクソなところが多い。
人間は、その両方を抱えたまま、今日もどこかで誰かを傷つけ、誰かを救っています。
中途重度障害者として、私はこれからも何度も世界に絶望し、社会に怒り、人間に失望するでしょう。
それでも同じくらいの回数、誰かのささやかな優しさに救われ、
> 「ああ、人間ってやっぱりおもしろいな」
と笑ってしまうのだと思います。
もしその様子を、どこかで仏陀が眺めているとしたら——
きっと少しだけ目を細めて、こうつぶやくのではないでしょうか。
> 「クソさを嘆きながらも、
なお世界の美しさを見ているその心を、
どうか手放さないように。」
その声を、勝手にそうだと受け取って。
私は今日も、小さな画面の中で、
クソで愛おしい人間たちの世界について、
言葉を重ね続けていこうと思います。
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