私は、ある日突然、中途で重度の障害を負った。
それまで当たり前にできていたことが、ある日を境にできなくなる。立ち上がること、歩くこと、箸を持つこと、文字を書くこと…すべてが自分の意志だけではままならなくなった。
病室の天井を見つめながら、私は思った。
「この先、誰も私の苦しみを理解できないんじゃないか?」
その思いは日を追うごとに強くなり、社会に戻った後も、私の心の奥底に重くのしかかり続けた。
“理解されない” という絶望
障害を負ってから、私は何度も周囲に自分の気持ちを伝えようとした。
でも、どれだけ話しても、どれだけ説明しても、「そっか、大変だね」「頑張ってるね」と言われるだけで、心から共感してもらえたとは思えなかった。
私はただ「大変だね」と言われたいんじゃない。
この苦しみがどれほどのものか、ほんの少しでも理解してほしかった。
例えば、足が動かないだけではない。動かせないことで、外出するのも一苦労になり、人の目線を気にしなければならなくなる。健常者にとっては何でもない階段や段差が、私にとっては大きな壁になる。
片麻痺の手で食事をするたびに、スプーンが落ち、箸がうまく使えず、服が汚れるたびに、隣にいる誰かの視線を感じる。
健常者は「慣れればいいよ」と言うけれど、それは“健常者の目線”だ。
私の体はもう元には戻らない。「慣れる」しか選択肢がないのは分かっているけれど、それでも心がついていかない時がある。
それを理解してほしいと願うことは、そんなにわがままなのだろうか?
本音を話せた、たった一人の存在
そんな思いを抱えながら生きてきた。
でも、ある日、ふと、私は妻に本音をぶつけた。
「誰にもこの苦しみを分かってもらえないんだ」
「もう、誰にも期待しない方がいいのかもしれない」
これまでずっと押し殺してきた本音だった。
その時、妻は何も言わずに私の手を握り、静かに涙を流してくれた。
言葉はなくても、彼女は私の痛みを、苦しみを、孤独を受け止めようとしてくれたのだと思う。
その瞬間、私は涙が止まらなくなった。
「やっと、わかってくれる人がいた」
それは、孤独に耐え続けた私にとって、心が震えるほどの救いだった。
“理解してほしい”はエゴなのか?
でも、ふと考えてしまう。
妻は私を受け入れてくれた。だけど、それ以外の人は?
社会は?
私は、誰かに「理解してほしい」と思い続けていたけれど、それ自体が間違いだったのだろうか。
人は、他人の人生を100%理解することはできない。
どんなに言葉を尽くしても、実際にその立場にならない限り、心から共感することは難しいのかもしれない。
「理解してほしい」——この想いが強すぎたのかもしれない。
でも、だからといって、私はこの気持ちを捨てることはできない。
なぜなら、私と同じように「理解されない」と苦しんでいる人が、この世にはたくさんいるからだ。
“理解されない孤独”と、これから生きる道
私は、もう「誰も分かってくれない」と嘆くことをやめようと思う。
その代わり、同じように悩み、苦しんでいる人の気持ちに寄り添いたい。
「あなたの気持ちは、痛いほど分かるよ」
そう言える人でありたい。
障害を負ったことで、人の優しさや冷たさ、社会の理不尽を知った。
だからこそ、同じように孤独を抱える誰かの力になりたいと思う。
もし、この記事を読んでいるあなたが、孤独を感じているなら——
「あなたの気持ちは、あなたが思っているよりも、きっと誰かに届いている」
あなたは、一人じゃない。
私も、一人じゃなかった。
妻がいて、支えてくれる人がいる。
そして、この記事を読んでくれたあなたがいる。
「分かってくれる人なんていない」と思う日もある。
でも、必ずどこかに“たった一人”でも、あなたを理解しようとしてくれる人はいる。
だから、どうか諦めないでほしい。
理解されない孤独は、確かに苦しい。
でも、その中で、自分を大切にして生きていくことはできる。
この文章が、同じように孤独を感じている誰かの心に届くことを願って——。
あなたは、一人じゃない。



















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