イスラエルとパレスチナの争いをめぐるニュースを目にするたび、胸が痛む。長い歴史を背景にした複雑な対立が、子どもや一般市民を巻き込み、取り返しのつかない犠牲を生んでいる。この現実を目の当たりにするたび、私たちは何を思い、何ができるのか、考えずにはいられない。
私は中途重度障害者として生きる中で、多くの「分からないこと」に直面してきた。健康だった頃には気づかなかった社会の壁、偏見、そして無力感。それらは障害を負った瞬間に一気に押し寄せてきた。だからこそ思うのだ。戦火の中で生きる人々が抱える苦しみも、当事者でない限り、私たちには本当の意味では「分からない」かもしれないと。
理解しようとすることの価値
ただ、分からないからといって、目をそむけるわけにはいかない。大切なのは、分からないなりに耳を傾け、心を寄せることだと思う。イスラエルとパレスチナ、どちらにもそれぞれの正義があるだろう。しかし、どんな理由があろうとも、罪のない子どもたちが命を奪われることが許される社会であってはならない。
障害者として生きる私も、しばしば「当事者でない人に自分の痛みは分からない」と感じることがある。けれども、分からなくても寄り添ってくれる人の存在が、どれほど救いになるかも知っている。だからこそ、私たちは立場を超えて他者の痛みに寄り添う努力を続けなければならないのだと思う。
平和を願う力
平和という言葉は、ともすれば抽象的で、手の届かない理想のように思えるかもしれない。でも私は思う。平和とは、特別なことではなく、誰もが安心して日々を送れる状態のことだと。それは私たち障害者にとっても同じだ。平和があれば、病気や障害を抱えていても、それぞれのペースで生きていける。
世界中の紛争が完全になくなる日は、もしかしたら私たちが生きている間には訪れないかもしれない。それでも、平和を願い、行動を起こすことは無意味ではない。私たち一人ひとりが「今いる場所」でできる小さな行動が、未来の平和への第一歩になるのだ。
私たちにできること
では、私たちに何ができるのだろうか。たとえば、情報に触れるとき、どちらか一方の意見に偏らないようにすること。難しいかもしれないが、さまざまな立場の声を聞き、理解しようと努めることが大切だ。また、争いの当事者である子どもたちや市民を支援するための寄付やボランティアも一つの手段だろう。
そして何よりも、自分の周りから平和を広げていくこと。家族、友人、職場──小さなコミュニティの中で、争いではなく対話を選ぶ。相手を思いやり、寄り添う。その積み重ねが、やがて大きな波となり、平和な社会を作る力になると信じている。
平和の種を蒔く
私はブログを通じて、自分の経験や思いを発信している。中途重度障害者としての視点から、感じること、伝えたいことを言葉にしている。今回の記事もまた、誰かの心に平和の種を蒔くきっかけになればと願っている。
争いの渦中にいる人々の痛みは、私には完全には分からない。それでも、分からないなりに寄り添い、平和を願う心を持ち続けたい。そう思うのは、私自身が多くの人に支えられ、今ここに生きているからだ。
どうか、この記事を読んでくださった皆さんも、自分にできる小さな行動を考えてみてほしい。そして、平和を願う気持ちを共有してほしい。その願いが、きっと誰かの心を動かし、世界を少しずつ変えていく力になるはずだから。
平和への祈りを込めて。



















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