はじめに
「なぜ、私たちはこの世界で生き続けなければならないのか?」——ふとした瞬間、そんな疑問が胸の奥に浮かび上がることはないだろうか。日々の出来事に息苦しさを覚え、理不尽さに押しつぶされそうになるたびに、私自身もこの問いを繰り返してきた。しかし、問い続けることこそが人生そのものなのかもしれない。
生きる意味を問う—文豪たちの視点
明治の文豪たちも、同じような問いに向き合ったのではないだろうか。夏目漱石の『草枕』に登場する「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。」という一節は、生きる上での矛盾を見事に表している。理知を優先すれば、世界との衝突を避けられない。かといって、感情に流されるばかりでは、自らの存在が曖昧になってしまう。このバランスの中で、私たちはどう生きていくべきなのだろうか。
障害者としての視点—不条理な現実と向き合う
私は障害者になったとき、この問いと真正面から向き合うことを余儀なくされた。それまで当たり前だったことが、ある日突然できなくなる。それはまるで、世界の理不尽さを突きつけられるような体験だった。
しかし、私はそこで立ち止まることなく、考え続け、また歩き始めた。そして気づいたのは、「人生とは、完全な答えを求めるものではなく、問い続けるものなのかもしれない」ということだった。
生きることは選択の積み重ね
芥川龍之介は「人生は一箱のマッチに似ている」と書いた。慎重に扱わなければすぐに燃え尽きるが、使わなければ意味がない。私たちはそれぞれ、自分の手のひらに小さな炎を抱えながら、それをどう燃やすのかを模索し続けている。
「クソみたいな世界」と感じることもある。しかし、それは私自身の心の状態を映し出しているに過ぎない。もし私が「この世界も悪くない」と思えたなら、世界もまた違った顔を見せるのかもしれない。視点が変われば、見える景色も変わる。それは、人生の中で何度も経験してきたことだ。
まとめ—生きることの価値
それでも、時折、自嘲の笑みがこぼれる。自己否定と自己受容の間を行き来しながら、それでも生きることを選ぶ。その選択を繰り返す日々の中で、私は少しずつ自分を肯定できるようになってきた。
なぜ生きなければならないのか。その問いに明確な答えはない。それでも私は今日も生きる。喜びも、悲しみも、絶望も、すべて抱えながら——それが私の人生なのだ。
この生きる営みの中にこそ、きっと何かしらの価値があると信じたい。
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