【再掲】自伝的web小説「燃える」

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「それ狼なんですよ。」 

紅葉が有名な歴史ある田舎の神社の変わった狛犬の前に佇んでいる青年に神主が声を掛けた。

角もなければ玉も踏んでいない、確かに狛犬でも獅子でもない。

「狼ですか・・・。ご祭神は大和尊命ですか?」

狼がいる神社は大和尊を祀ってると某動画サイトでお笑い芸人が言ってたことを思い出し、咄嗟に口から出た。

説明書きがないか境内を回ってみたが、あるのはグラディエーション豊かな紅葉と、散りはじめの山茶花ぐらいである。

変わった狛犬だと見て回り、休憩がてら狼と言われた像を見ている背は低いが不思議な雰囲気を持っている青年に対して、

「田畑を荒らす猪や鹿から作物を守る益獣として、狼を守り神にしているんです。 ご祭神は宇迦之御魂神になります。」

と神主は青年の疑問に答えた。

青年は顎に手を当て、合点がいったと、深くうなずく。

このままもう少し話したいと思ったが、腕にはめている時計に視線を落すと正午を回ったところだった。

「すみません。ヨモギうどんがおいしいお店があると聞いたのですが、場所を教えていただけませんか。」

車で十分程の所にお店があるということで、タクシーを呼び向かうことにした。

到着すると、茅葺の古民家に車が二台止まっている。

中に入ると、囲炉裏や座敷があり、都会では味わえない懐かしさがあった。

「健介くん、久しぶり」

店内を眺めていると後ろから声を掛けられた。

振り返ると、老人と言って差し支えない外見だが背筋がピンと伸びた男が、懐かしい笑顔を向けている。

「信春先生、ご無沙汰してしまっていて申し訳ございません。」

健介と呼ばれた青年は、恐縮し言葉を返した。

先生と呼んでいるが本当の師弟ではない、実際は三十路の青年と白寿を目前にした老人を繋いだ接点となる人物がいた。

「今日は、但馬まで墓参りかね?」

そう尋ねる信春に対して、

「はい、もうすぐ一年です。早いものです。

明石の墓に入ってくれてれば楽なんですけどね。

それにしても、山が燃えてるんじゃないかという程の美しい紅葉ですね。」

健介は窓の外を眺めながら呟く。

この亡くなった人物は健介にとって忘れられない人物であった。

一年前に亡くなったという男との思い出を思い出しながら、信春は話した。

「健介君と彼との出会いはどんなだったんだい?」

「そうですね。私は人間関係に嫌気がさし高校から引きこもっていました。そんな中、母は、脳卒中で半身に麻痺が残り、中途重度身体障碍者としてどん底の時に離婚と最愛の娘さんとの別れを経験し、苦悩の末誰かの役に立ちたいというカウンセラーがいるという話を聞き、私の為に、カウンセリングを依頼してくれ、あの人が自室を訪ねてきたところが出会いですね。」

健介は思い出しながら語る。

「私の出会いは、彼が脳卒中で倒れて手術を受け、目を覚ました時にたまたま同じ病室の隣のベッドだったことだね。当時は心臓が悪くて手術した後だったんだ。」

そんな先生の言葉に健介は目を輝かせた。

「私はあの人から手術直後の話は聞けなかったので、是非お聞かせ願いたいです。」

すると、先生は一息ついてから、話し出した。

「健介君は彼を特別な人間だと思ってるフシがあるので、調度良い機会かな。

彼は、その辺の普通の青年だったよ。みんなと同じように苦悩し、看護師や家族の前では常に笑顔だったが、夜は寝れずに嗚咽を漏らしながら泣いていた。

私も戦時中に経験したが、人は強いといっても、今まで何も考えなくても当たり前にできていたことができなくなる苦痛・不安・絶望、更にそんな状況でも家族を支えなければならない責任、回復するという期待・希望、なぜ助かってしまったのかという後悔、そんな多くの感情を一度に受け入れられるようには出来ていない。

彼が手術直後に精神的に潰れかけたのは必然ともいえる。」

その話を食い入るように聴く健介を見て、フッと息を零すと、

「そういえば、一つだけ未だに私には分からないことがあるんだ。  

初めての一時帰宅から帰ってきた時に、離婚することになりました。と、気恥ずかしそうに私に伝えた後、窓の外の空を眺めてから、ぽつりと一言、「もう、どうでもいいや。」

と彼は確かに呟いた。それが引っ掛かった私は、人生の先輩として、最後まで諦めちゃいけないと、陳腐な助言をしようと彼に向き直ったが、その言葉は私の口から放たれることはなかった。」

「なぜです?」

健介は短く質問した。もっと聞きたいことはあったが、ここを聞かねば先に進めないような気がしたのだ。

「振り返りざまに、彼は小さくこういった。「信春さん、貴方が今私に言おうとしていることは、現在のこの日本では、とても真っ当であると思いますが、それは本当に真実でしょうか?」と、私は言葉が出なかった。諦めずに頑張れってことは、人として正しい姿勢だと思う。

少なくとも私のこれまでの人生においては間違いなく真実だ。

しかし、彼には全く違う世界が見えていたのか、それとも純粋な疑問だったのか、今ではもう分からない。」

先生の言葉に深くうなずく健介が、思い出したように話し出した。

「私は、引きこもりの時のカウンセリングでも、引きこもりから脱出した後も、あの人から頑張れとか諦めるなとか言われたことがないです。

もう死にたいと言った時も、「そうか、生きてればいいことあるよなんて無責任な言葉は言いたくないんだよな~。死にたいなら無理して生きる必要はないと思うけど、僕は、君に生きていて欲しいし、せめて、ご両親が存命中は生きていて欲しいかな。」って言われたのは覚えてます。」

と、苦笑いを浮かべ飲物を口にした。

そんな健介を眺めていた信春は、思い出したかのように尋ねた。

「彼は私に常々言っていたことがある。「私は、とんでもない親不幸をしてしまった。子が親より先に死ぬなんてどれだけ辛いことかと、両親の気持ちを考えたら申し訳ない気持ちでいっぱいです。」ってね。勿論、彼は死ななかったんだけど、本人もつらかったんだと思う。だから君に、無理にとは言わないけどご両親より先に死ぬのはやめて欲しいと願ったんじゃないかな?」

「ちなみに、健介君にとって彼はどんな存在なんだい?」

「恩人ではありますし、目標とする人ですが、真似できないなと感じてます。」

即答した健介に信春は、不思議なことを口にした。

「あまり真似するのは彼も喜ばないだろうね。無為自然、頭で考えず、ただ自らに委ねなさい。彼ならそう言うだろう。それにしてもなぜ彼は養父市に来たと思う?」

「たまたま奥さんが養父市の方だったからだと聞きましたよ。」

確かに、普段から人になぜ養父市に来たのか聞かれたらそう答えていた。

なぜなら、当たり障りがなくすぐに納得してもらえる回答だからだ。

「本当にそう思うかい?自分の経験や見たものが真実とは限らないし、彼はそこを隠すことに長けていた。それでは、質問を変えよう。」

「奥さんがたまたま養父市だからと言った理由で、住処を変えるような男だと思うかい?そこに違う意図はなかっただろうか?日本の八割以上は中山間地域だ、その中で何故彼は養父市を選んだと思う?」

「養父市なら日本を変えられると思ったから?」

そんな健介の答えに、笑みを漏らし、信春は続ける。

「何故?」

「あの人は、養父はどうですか?って聞いたときに、調度良いと言っていました。」

そこに答えがあるのだろうかと健介は考えているが、その姿を微笑ましく見つめながら信春が、また違った問いを投げかけた。

「養父って名前にヒントがないかな?」

「名前にですか?由来は知りませんが」

「私も由来は知らないが、円山川を見れば薮なんじゃないかという想像はできるだろ?じゃあどうして養父って漢字をあてたんだろうね?」

「信春先生、昔あの人が言っていたことを思い出したんです。」

信春にとって面白くもあり興味をそそられるやりとりだ。

「名は体を表わす。この言葉には誤解があると思ってる。

体とは何か、実体であるならそれを識別するために、名を付けたということならそうだろう。でも、本当に体が先で名が後だと思うか?って言ってました。」

何の話だろうという話だが、信春は口を開く。

「なるほど、例えば、子供の名前のように生まれる前に親の希望や祈りが込められた名前がつけられることで、名が体に影響をあたえているという考えだね。

言霊というか、今の世では鼻で笑われそうな話だが、古代から日本人は信じてきたんだろう。」

「あの人も同じことを言ってました。

また、概念が先で、それに名をつけ体となったのではないだろうかという仮説も立てていました。」

「例えば「和」のようなもののことを言ってるんだろう。

面白い仮説ではあるが、逆に今なら受け入れられるかもしれないね。」

先生の言に知性を感じるとともに、どこか掴みどころのなさも感じていた。

結局、考察だけして何も分からずにその日は別れたが、三日後妙見山の名草神社に集合と決めた。

道の駅の旅館に宿泊する予定の健介は、温泉に入り、今は目の前のすき焼きをスマホに収めている。配膳にきてくれた仲居さんに養父の名前の由来を聞いたが、三人続けて、聞いたこともないだった。さっきの詳しそうな妙齢の女性も知らないという。

その代わりに、養父市の有名人の池田草庵という人物がいたことと、妙見山には北極星信仰があるという情報をゲットした。

三日後先生に話してみよう。

翌日、朝の和定食を食べながら、今日の観光ルートを考える。

スマホを眺めながら、一人呟く、

「別宮の棚田、養父神社、ほたるの里、

養父神社は昨日行ったし、池田草庵の青蹊書院塾か、先生と話すなら見といた方がいいかもな、あとあの人の氏神様にも挨拶したいし、確か家は八鹿町八鹿の京口って言ってたはず。」

仲居さんを呼び止め聞いてみた。

「すみません。八鹿町八鹿の京口の氏神様ってどちらかご存知ですか?」

知らなかったようで、京口の従業員さんに聞いてきてくれた。

柳神社というそうだ。

早速、タクシーを捕まえようと道に出てみたが、走ってない。

とりあえず、埒が明かないのでタクシー会社に連絡するとすぐに来た。

そりゃ車ないと不便だよなと納得、健介は免許すら持っていない。

健介はタクシーに乗り込むと、

「柳神社と青蹊書院塾を回ってください。」

運転手が柳神社?と聞き返したので、健介は、スマホで地図を見せた。

階段を昇り柳神社にお参りし、高いところから街並みを見下ろすと、神戸の夜景なんかとは違い、長い間繋がってきた人々の生活のある美しさを感じることができた。

また、下で待ってもらっていたタクシーに乗り込むと青蹊書院塾に向かう。

地名が読めなかったので運転手に聞くと宿南「シュクナミ」と読むそうで、

地名の不思議について考える。

「八鹿でヨウカなのに、何故九鹿でクロクなんだろう?これはあの人が言っていたことだ。

法則的には九鹿はココノカじゃない?」

これには賛成したのを覚えている。

あの人が手渡してきたのは消えるボールペンだった。

そんなこんなで、青蹊書院塾だが説明文等読まずに建物に見入っていた。

健介は幕末好きだが、池田草庵は知らなかった。

「萩とは違って、観光地化されてないのは素晴らしい、

池田草庵先生、貴方が思い描いた国になってますでしょうか?」

健介は無意識で語りかけていた。

「人生の幕が下りる瞬間まで最高に楽しんで味わい尽くす。」

三日後、早速タクシー会社に連絡してきてもらう。

名草神社に向けて出発したが、どんどん山の中へ入っていく。

「この左手の建物ですか?」

「そちらは日光院になります。」

そんなやり取りをしながら、更に山の中へ。

健介は、何とも言えない不安に襲われながら名草神社を目指していた。

「やっと着いた。」

健介は支払いを済ませて外に出ると、澄んだ空気を肺いっぱいに溜め込み深呼吸をした。

坂を上ると眼前には立派な朱色の塔があり、その前には先生がいた。

「おはようございます。

良い天気で気持ちがいいですね。」

挨拶をすると、先生は振り返り挨拶を返してくれた。

ここでさっそく仲居さんから得た情報を披露しよう。

「先生、ここ妙見山では北極星信仰があるらしいですよ。」

自慢げにならないよう、気を付けながら言ってみた。

「そうだろうね。日本に妙見山と言われる山はいくつかあるけど、どこも北極星信仰が残ってるからね。」

流石博識だと言わんばかりに、健介は唸った。

「それじゃあ宗教の目的は分かるかい?」

「それは分かります。死の恐怖の緩和・克服が最大の目的です。」

「ふむ、まあその通りだね。

それでは、信仰の目的は何だと思う?」

宗教と信仰は一緒じゃないのか?と健介は思ったが、頭をフル稼働させる。

あの人との話、昔読んだ論語・老子・孫子・ニーチェ等、どこかにヒントになる一節はないだろうか。

「難しかったかな。宗教=信仰の場合もある。というか最も多いパターンだろう。

ちなみに私と彼の最も大きな共通点は、信仰に対する考え方だった。

信仰の目的とは極論すると人それぞれ、卑怯だと思うかね?しかし、これは事実であり信仰の本質だ。ちなみに私と彼にとっての信仰の目的とは、自分らしく生きるための道しるべ。つまり信仰とは目的ではなく手段だということ。」

健介は、感心しながら聞いていたが、一点引っかかった。

「お釈迦様は、パーリ聖典でも信仰を持ちなさいとはおっしゃられてないですがどう思います?」

信春は開いた口が塞がらない。

「君はパーリ聖典読んだの?

あれは、釈迦の口伝を弟子が書き起こしたものだったと思うけど、二万近い経典で出来てたはずだけど?」

「はい、全ては読んではないですが、引きこもり中は哲学にハマってまして、手を出しました。仏教って宗教じゃなくて哲学だと思うんです。」

「気持ちは分かるけど、あそこまで完璧に体系化されたらそれはもう宗教だろうし、日本では税制も宗教法人だから、やっぱり宗教じゃないかな。

もちろん釈迦は哲学的にもキーマンにはなるだろうけどね。」

と苦笑いを浮かべる。

「それでは、先生は池田草庵という人物をご存知ですか?」

「志は高遠を期し、功は切近を貴ぶ。志、高遠ならざれば、則ち自足し易く、功、切近ならざれば、則ち學は實効なし。」

「それ、なんですか?」

「幕末の儒学者池田草庵の言葉だけど、この人のことだろ?」

「先生何でも知ってるんですか?」

もはや健介は後ずさりしていた。

すると、信春は笑いながら、

「彼から聞いていただけだよ。非常に分かりやすく学びの心構えを説いているので覚えていたんだ。」

「私には意味が分かりませんが」

そういう健介に

「現代っぽく言うと、志は、高く大きく持ち、それを実現するためにやる実践は身近な事からが良い。志が高くないとすぐに満足してしまいやすく、また、実践が身近な事でないと自分を高めていく学問をしているといってもなんの役にもたたない。

ということだが、実に的確だ。但馬聖人といわれるだけあると思わないかい?」

「なるほど、あの人の行動と一致してますね。

志は凄く高いのに、やってることは地味というか。

大きなことしなければという考えは捨てると楽になると言っていましたし、

無理しなくていいぞって言ってたのは、私は老荘思想の影響だと思ってましたが、池田草庵の言葉を自分なりに解釈してたんですね。」

その言葉に、信春は唸った。

「その解釈は中々面白いな。

儒学者ってことは根本に孔子の論語がある。その実践を見ているものが、正反対の老荘思想を感じ取るというのは、池田草庵の考えが面白いのか、彼の解釈が面白いのか、かなり興味深い。」

そういって目を輝かせている先生を見て健介は、こういうところが、あの人と似てると思い馳せていた。

「彼が生きた意味と何故養父を選んだのかを最後突き詰めてみようか。」

先生の提案が旅の終わりを予感させた。

「私が知っているあの人の確固たる信念は「自分を大切にできる人間になってほしい。」その思いが最も強かったと思います。」

「そうだね。特に子供に対して強かったね。

私には、「そこに暮らす子供が幸せなら、その地域は幸せである」って言ってたしね。」

「不思議だったんですよね。

ずっと営利企業でキャリア積んでた人が、急に教育、特に保育や幼児教育って方向転換したのが何でだろうって、障害を持ったことと関係あるんでしょうか?」

「彼は脳出血の後遺症で左片麻痺になったから、障碍者となった原因は脳出血なんだ。そこから更に深堀し、脳出血の根本原因を考えた結果、自分を大切にしていなかったというところに落ち着いたらしい。」

「手術直後から客観的に自分を考察したんですか?」

「そうだね。自分を客観視できるなんて不幸なことだと思うけどね。

彼の言葉を借りれば、手術直後の自分を客観視した根本原因の解明によって後悔と絶望の海に沈んだということらしい。それの検証こそ、彼が夜な夜な嗚咽を漏らしていた理由だ。控えめに言って地獄だったろうに。」

その言葉に健介は肌が泡立つ気がした。

「でも、その検証の結果、残酷なまでに自分の現状に向き合い障害の受容に繋がったと言っていたよ。」

「あの人は、私たちに選択肢を提示してくれてたんだろうなって思います。

頑張ってもいいし、頑張らなくてもいいから自分で考えて選ぶんだよ。

どんな選択をしたって貴方は生きているだけで素晴らしい存在なんだと何度も言われました。」

「昨今、身近にあった死が、遠のいたことで、忘れてしまった日本人としての大切なことを気づかせてくる切っ掛けになってくれようとしたのかもしれないね。

本来は私のような年寄りの役目だったんだろうけど。」

信春は自嘲気味に笑った。

「それでも、先生はあの人のメンターだったじゃありませんか。

血の繋がりはなくても、自分の意志を継ぐ者を育てるということは貴いことだと思います。」

健介の言葉に熱が帯びる。

「それでは、彼の意志を継ぐ君が、私の意志も継いでくれるということかな?」

無言で頷く健介に

「私が、彼に託した思いは一つだ。

他人を思いやるのはとても素晴らしいことだが、まずは自分と命を繋いでくれた両親・先祖を大切にしなさい。

そして、それが叶った時、もう一度、この国と未来を見つめなさい。

ほら、この国も未来も美しいだろ?」

健介は涙の止まらない自分に困惑しながらも聞き入っていた。

「それを感じた時に、ご先祖や両親に、感謝と一緒に今最高に幸せですと報告しなさい、そうすれば人生が変わるし、そんな日本人が増えれば日本は生まれ変わる。

彼が、幼児教育に目覚めた切っ掛けは、私のこの言葉だと言っていた。

健介君はどう感じた?」

「私は、元引きこもりのシステムエンジニアで、養父に移り住むことはあり得ませんが、自分がいる場所で、自分に出来ることをしたいと思います。

まずは、自分と先祖を大切にするところから始めます。」

「その言葉が聞ければ十分だ。」

そう言った先生が少し疲れているように見えたので、健介はタクシー会社に電話した。

「名草神社まで一台お願いします。

乗るのは一人です。」

「最後に、あの人が養父に来た本当の理由は分かりませんでしたが、先生は日本の未来をどうお考えですか?昨今暗いニュースばかりで」

「私は、日本人というか、子供たちの可能性を疑ったことが一度もないというのが、唯一誰にでも胸を張って言える自慢だ。

未来はいつだって明るい。その未来を作るのは今の子供達だろ?

子供たちの可能性を疑ったことのない私の答えはいつだって同じだよ。

常に未来は明るいものだ。」

「なるほど、だからあの人も幼児教育の大切さを身に染みて、「養父の保育と教育から日本を変える」って言い出したんですね。」

そうこうしているとタクシーが到着した。

「それでは、そろそろ帰ります。」

そう言って健介が背を向けると、信春が口を開いた。

「健介君、また会おう。

その時までに、彼に養父に来た本当の理由は聞いておこう。

それでは、気を付けて」

その言葉に振り返った健介の目に映る、荘厳な朱色の塔と共に見える山は、確かに赤々と燃えていた。

第二章 高遠の志、切近の功

明石に帰った健介は、自室の仕事用PCの前に腰を下ろした。

仕事は個別に企業から案件をもらうフリーランスのSEだ。

旅から戻り、楽しかった思い出や学びをそばに置き、仕事のスイッチを入れようとした時、

母親から声がかかる。

「健介、貴方から貴方へハガキ来てるわよ。」

これは、あの人に教えてもらった自分を高める手法だ。

遠方での経験による気付きや学びは、帰ってくるころにはだいたい忘れてるので、現地で絵葉書を購入し、それらを書き込んで自分宛に送るというものだ。

地方にお金が落ち、自らのアップデートになり、思い出も残る一石三鳥の方法である。

あの人は祖父からおしえてもらったと言っていた。

そのハガキを母から受け取り、目を通すと、

「他人を思いやるのはとても素晴らしいことだが、まずは自分と命を繋いでくれた両親・先祖を大切にしなさい。

そして、それが叶った時、もう一度、この国と未来を見つめなさい。

自分を大切にして、もう一度この国の未来を見つめなおして、先生やあの人に報告する。

そのための実践として、

志は高遠を期し、功は切近を貴ぶ。志、高遠ならざれば、則ち自足し易く、功、切近ならざれば、則ち學は實効なし。を素直に実践することを誓う。」

と、力強い字で書かれていた。

「まず志を立てよう。

明石からITの技術を使って、子供たちの無限の可能性を追求できるような明るい日本を作る。

そのための実践は、池田草庵を学び、あの人の生き方を学び、日々自分と先祖を大切に生きる。 でも、なんかパッとしないな。」

この時健介は、まず池田草庵の教えをもっと学びたいという欲求にかられた。

あの人から聞いていた教えの一つに「慎独」というものがあった。

誰も見ていない状況でも慎み深く生活しましょうというものだそうだが、

本来日本人は、そうしてきたはずだ。

「誰も見ていなくてもお天道様が見ているというものは、神道的な考え方であり、日本人に根付いていたはずだ、それなのにあの時代に教えとして明文化したということは、日本人にその感覚が薄らいでいたと考えるのが妥当だろうか?」

と言ったあの人の考察は興味深かったため、未だに健介の記憶に定着していた。

その時に、健介が言った言葉が、

「江戸時代は、家康が仏教でも神道でもなく、儒教で行こうと体系を構築した影響ですかね?」

というものであった。

これにはあの人も自身の考えを池田草庵の人物像に思いを巡らせながら答えた。

「その考察は的を射てると思う。

寺子屋でも論語を教え、儒教的な考えが広まっていた幕末において、池田草庵が「慎独」を説いたのは、彼が自分の信じた学問を大切にしていたと同時に、脈々と受け継がれていた日本文化に対しても深い知識があり、日本人として大切にするべき想いが確かにあったんだろうね。」

この言葉を思い出した健介は、すっかり池田草庵という人物に心奪われていた。

同じ兵庫県にこんな人がいたなんて、学校でも教えてくれなかったし、知れたのは幸運だったと思う健介だった。

このたび健介が受注した案件は、ある発動機メーカーの設計図を保存するシステムのセキュリティーの構築だが、こんな重要な基幹システムは自社で設計できるよう社内SEの育成に努めるべきではと、打合せの時点で思っていた。

「池田草庵について調べているからか、人を部品のように扱う企業への嫌悪感や、育成できない低レベルな企業への不信感にまみれていた。」

健介は、そんな企業の人事担当者が相談に来た際のあの人の言葉を思い出していた。

「即戦力を求めるのをやめない限りまともな企業にはなりませんよ。

人件費という観点からしか仕事を見れず、技術力のある派遣なんかに頼ってたら、社内にノウハウも経験も残らないスカスカの企業になります。

また、まともに人材育成をしたことがない管理職の下に付けられた一般社員は、不幸になります。」

「人材不足ではなく、企業の人件費不足です。」

とはっきり言っていた。

勿論、経営者が問題であって人事担当者の責任ではないと健介は思っていたが、

自分の仕事の責任範囲の中で、経営者に対して、問題点改善点を指摘できないようではその責任を果たせていないと言っていたのを思い出した。

そんなやり取りの中、同席していた健介はあの人から話をふられた。

「人件費不足の解消の方法は何が考えられる?」

「一番健全なのは、コスト削減ではなく、売上アップですよね。

経費を掛けずに売上アップする方法」

健介は必死に考えた末、ある結論にたどり着く。

「あっ、単価アップだ。」

それしかないと健介は声に出した。

「ね、ちゃんと考えれば答えがでるでしょ?

如何に今の経営陣や社会人が物事を考えていないかいうことです。

目先の売り上げに振り回されディスカウントの嵐で業界も自社も社員も疲弊させて、日本をデフレに叩き落としたということです。」

「起こる問題は個人であっても、企業であっても自分自身に原因があると自覚しましょう。

時代や国のせいにしてはいけません。

前回おっしゃられた、受験者の志望動機が、みんな面接対策のコピペのようだというのも、受験者のせいでしょうか?

御社に特色がなく、魅力がなく言うことがないから、当たり障りのない言葉を選んでいるとは考えないんですか?」

って人事担当者の相談に乗ってるあの人からもっと学びたいと思ったのを思い出した。

あの人は本当に裏表がない。

そして、生き方に対しては寛容なのに仕事には厳しい。

人によっては、とても優しい人だと映るだろが、違う人から見れば本当に厳しく付き合いたくないと思うだろう。

しかし、あの人は、

「厳しいことを言ってる時の方が多分優しいよ俺。」

って言ってた。

禅問答かとも思ったが、以前先生も優しい言葉や信頼を向ける言葉ってのは受け取る方からすると厳しいものが多いとおっしゃられていたのを思い出した。

私にとってあの人は本当に救ってくれた大恩人で、そのあとこの人から学びたいと三年ほどついて回った。

しかし、その後、亡くなるまでの一年程は距離を置くことにした。

依存してはいけないと思ったし、いつも否定なしで承認される感覚が心地よすぎて離れられないと思ったからだ。

その結果、再度、企業に就職し、職場の人間関係が原因で、もう一度引きこもることになった。

健介は、懐かしい思い出を思い出しながらも、仕事に取り掛かった。

セキュリティーで考えるなら、現代で最も強固なのはブロックチェーンだ。

全ての動きを記した通帳のようなものを皆で持って相互監視するというような仕組みだが、日本的ではないなと思う健介であった。

勿論、江戸時代に五人組制度であったり存在したが共産圏のような思想だと思う。

「慎独」のような考えをシステム化し、人工知能にセットアップできれば、もう一つ上のステージへ行けるのではと想像できる。

エンジニアとしては非常に興味深い話であるが、自身は研究分野に身を置いていないことから、無駄だなと、考えるのを止めて仕事へと脳を切り替える。

健介のタイムスケジュールは、仕事は一日に五時間、残りは生活、遊び等にあて、自分への投資として勉強に四時間使っている。

その四時間の内二時間を池田草庵の研究にあてる予定としていた。

この健介のキャリアは、元々、幼少期から英才教育を受けており、関西の某有名小中卒業し、高校から引きこもり、大学には興味がないと、大検を取らずに独学でプログラミングを勉強、引きこもり脱出後、エンジニア大手企業に入社したが、現在はフリーランスとして仕事を受注していた。

今では、香港やオースティンからも仕事が舞い込む売れっ子である。

そんな経緯で、語学や宗教学も教養の一つとしてくわしくなり東洋思想にものめり込んだ。

そういえば、昔あの人が

「ペッパー君に慎独って概念をインストールしたらどうなると思う?」

って目をキラキラさせて聞いてきたことがあったなと思いだし、少し笑ってしまった。

健介は、余計なことを考えながらも、凄い速度で、セキュリティシステムを構築していく。

「高遠の志は分かる、切近の功とはあの人でいうとどれなのか?

また、俺には何ができるのか?」

学ぶだけで良いのだろうかという思いが抜け切れていなかった。

あの人は、自分の理念と近いこども園を見つけて、養父市に誘致し、少しずつ子供たちから変わっていこうと行動を起こしていた。

やはり、学びとは行動・実践ありきだと思う健介であり、形の見える実践を行いたいと考えていた。

自分の専門分野であるプログラミングだが、プログラミング教育を推進する気にはなれないし、それが子供たちの為になると思えなかった。

あの人から養父のプログラミング教育に付いて意見を求められたことがあったが、健介の回答は、義務教育時点でプログラミングを書けることに意味などないし、必要性を感じない、自分の表現したいものを発信する場としてつかうなら、まず、何を表現したいかを培うべきであり、アウトプットの手段など何でもいい。

これは英語教育と同じだ。英語が喋れるからなんだというのだろう?

伝えたいことがあるから手段として英語があるのだ。

伝えたい思いや心の発動を無視した教育は子供たちの為にならないと思う。

あの人が言ったことを今でも覚えている。

「俺が教育を決めていいなら、小学校一年生の一学期は勉強禁止でみんなで遊び倒すけどね。」

あの人ならやりそうだって思った。

某製紙会社の企業研修の講師として行ったとき、二時間の研修の最初の三十分全員で、ババ抜きやってたもんな。

健介は池田草庵の前にあの人の教えをまとめることにした。

「事実は一つ、それ自身に正誤も善悪もない。

だが真実は十人十色であり、同じく正誤も善悪もない。

つまり、自分の価値観を押し付けず、相手をそのまま受け入れることこそ、和の第一歩。

それを自分に向ければ、自分を大切にできる人間への道筋が朧げながら見えてくる。」

さらっと言ってたけど、めちゃくちゃ難しいこと言ってたよねと改めて思う健介だった。

そんな雲を掴むようなことを目指して生きた人だからあんなにも活き活きしながらも儚かったのかと思えるし、先生は、あの人のことを、真の意味で日本人だったよとおっしゃっていた。

あの人が先生に語った死の恐怖の話は、本当に大切なことだと私は認識し忘れないよう注意している。

「信春先生、俺死ぬのが本当に怖いです。

元々生への執着はない方で、周りには一度死にかけたんだから別になんともないと言ってますが、本心では本当に恐怖しかないです。

なぜなら、人はいつ死んでもおかしくないというのを知識じゃなく、経験で知ってしまい、その上で、両親と妻に俺が先に死ぬことはないと約束しているからです。

自分の力ではどうすることもできない事を約束するっていう暴挙に出てしまい恐怖しかないんです。」

そう言ったあの人に先生は、

「素晴らしいことじゃないか、死が怖いというのは生物として健全な状態だと思うよ。」

と、言ったそうだ。

「死は生の一部だ。紛らわすものではない。

自分の人生の最後の幕ぐらい精一杯楽しんでおろそうじゃないか。」

って、背中をバンバン叩かれて言われたそうだ。

あの人の教えは徹頭徹尾

「自分を大切にしなさい。そして子供たちの幸せを考えて行動しなさい。」

だった。

何か聞けば、良い言葉を返してくれていたが、本人としてはどうでもよかったんだろう。

例えば、

「縄文時代って一万年以上続いてたって知ってました?」

「そう言われてるね。世界五大文明説があるぐらいだし。」

「でも縄文文明の名残ってないですよね?」

「しめ縄とかは名残じゃない?

意外と出雲大社とか大国主命の話なんて縄文の話の引用かもしれないよ。」

みたいな、根拠はないけどなるほどと思わせてくれる事は多かった。

中でも驚いたのは、縄文時代の縄は蛇信仰じゃないだろうかと、中学生の頃から考えてたらしい。

本当に変わった人だ。

そんな人の教えが現代社会で役に立つのかは不明だが、私が求める日本人らしさは、歴史に出てくる侍でも百姓でもなくあの人にあった。

但馬訛りも増えてきたあの人の晩年の好きな口癖は、

「自分で選んだことなら好きにしんせい。」

だった、とてもやわらかい言葉で、但馬の風土を表わしているように感じた。

そのあとに付け加えられた言葉が、

「自分が選んだ一つのことが、お前の世界の真実だ。」

だった。

真面目な話の中にアニメのセリフを入れてきたり、論語と漫画の言ってることの共通点を指摘してみたりと、憧れるほどの知識雑学の幅広さは、人として凄いのか逆に馬鹿なのか分からない。

本人は、「馬鹿と天才は紙一重じゃなく同じだと思う」と常々言っていた。

勿論、ITやこの先の未来の技術についてなら、私はあの人を遥かに凌駕する知識も見識も持っているし、相手にもならない。

しかし、人として張り合える気がしないと言ったら、笑いながら。

「つまんないこと言ってないで、もっとワクワクすること考えた方がいいぞ。

世界中の誰も俺にもお前にもなれないんだから。」

私は、あの人に認めてもらいたいということが目標だった。

そんな人の教えを学ぶことはライフワークとして適切だと思っていた。

先生は、あの人の真似をすることをあの人は喜ばないと言っていたが、真似する以外に私の成長方法があるのだろうかと、健介は苦悩していた。

「草庵の門人たちは子弟共々共同生活をし、知識を与えるより人間の生き方、人格の完成をめざすものであったという。但馬の人材の育成に尽力されていた人で「子は親の鏡という。親を見んとすれば先ずその子弟を見よ」と教えを残されていることからあの人と近い感覚をお持ちだったんだろう。」

この言葉を聞くために、あの人の弟子として、和の理解を深め、和を体現した生き方をしなければなと思う健介であった。

あの人がブログに書いていた「真の日本人になる旅」を思い出してみるために、まだ残っているブログを開いた。

ブログの和についての記述は、

「座右の銘は「和而不同」意味は「和して、同ぜず」

これは、論語の言葉です。

「子曰く、君子は和して同ぜず。小人は同じて和せず。

 分別のある大人は、人と協調しても矢鱈と付和雷同することはしない。ところが雑魚どもはすぐに群れたがり、協調することはしない。」

私は和というものを最も大切にしています。

聖徳太子の十七条憲法にあるように、「和をもって尊しとなす」

これこそが日本人の本質だと思っているからです。

この「和を以って尊しとなす」という言葉は、実は中国の『論語』、そして『礼記』からの出典で、太子さんはこの言葉を引用したのではないかということが昔からいわれています。

 『論語』では、これは礼の働き、「礼の用は~」というように書かれています。つまり『論語』が述べているのは、「条件付きの和」なのです。要するに、世の中の秩序や上下関係など、そういったものが正しく機能するためには、皆で仲良くしなければならない。だから和が必要である。こういう考え方が、もともとの中国的な和の考え方です。

つまり、わざわざ言うってことは礼の文化が乏しかったのかなと推測させます。

では聖徳太子の和とは、一体何なのか。実はこの和は、前置きなく「和を以って尊しとなす」と出てきます。つまりこれは、条件のない「無条件の和」です。そうすると、その無条件の和とは一体何か。それを考えてみるには、まず私たち日本人が、どのような生活をし、どのように現在の状況まできたかという歴史をたどる必要があるかと思います。そして、その歴史をたどる前には、聖徳太子さんよりもはるか以前から考えていかなければならないと思います。

 私は、初代神武天皇の橿原宮での「建国の詔」まで遡ってみよう思います。

【建国の詔】

三月(やよひ)、かのとのとりの朔、ひのとのうの日、令(のり)を下してのたまはく、我東(ひがし)を征(うち)しより、こゝに六年(むとせ)なり。皇天(あめのかみ)のみいきほひをかうふりて、凶徒(あた)ころされぬ。邊土(ほとりのくに)いまだしつまらず、餘妖(のこりのわざはひ)なほ梗(あれ)たりといへども、中洲(うちつくに)の地(ところ)また風塵(さはぎ)なし。まことによろしく皇都(みやこ)をひろめひらき大壯(みあらか)をはかりつくるべし。しかるにいま、運(とき)此屯蒙(わかくくらき)にあひ、民(おほみたから)のこゝろ朴素(すなほ)なり。巢(す)にすみ穴(あな)にすむ、すむしわざ、これ常となれり。かの大人(ひじり)制義(のりのことはり)をたつ、かならず時のまにまにいやしくも、民(おほみたから)に利(くぼさ)あり、なんぞ聖造(ひじりのわざ)にたがはん。且まさに山林をひらきはらひ、宮室(おほみや)ををさめつくりて、つゝしんで寶位(たかみくらゐ)にのぞむべし、もて元々(おほみたから)をしづむべし。上はすなはち乾靈(あめのかみ)、國をさづけ給ふ德(うつくしみ)にこたへ、下はすなはち皇孫(すめみま)正(たゞしき)をやしなひ給し心(みこゝろ)をひろめん、しかうしてのちに、六合(くにのうち)をかねてもて、都をひらき八紘(あめのした)をおほひて、宇(いへ)とせんことよからざらんや。みれば、かの畝傍山(うねびやま)の東南(たつみ)のすみ橿原(かしはら)の地(ところ)は、けだし國の墺區(もなか)か、みやこつくるべし。

この詔のなかの「 八紘(あめのした)をおほひて、宇(いへ)とせん 」というくだりに注目しました。

「八紘一宇」で有名ですが、この言葉嫌いな世代もいますよね。ある意味ネガティブな言葉です。

天地四方八方の果てにいたるまで、この地球上に生存する全ての民族が、あたかも一軒の家に住むように仲良く暮らすこと、つまり世界平和であり、日本人の和の精神の軸の部分であると私は考えています。

聖徳太子がイメージした和はここが肝だったと推測してます。

なぜこのような和が出来上がったのか、日本という環境が原因ではないだろうか。海に囲まれた狭い地域であるということです。北海道から九州、沖縄まであるわけですが、ここは比較的、人類が生活しやすいような環境下にありました。そういう環境下にありつつ、しかも海に囲まれて、周囲から隔離をされています。しかし、日本の人々は、単一の民族ではないことは歴史から分かります。長い時間をかけて、徐々に徐々に、ある人はボートピープル、ある人は陸が続いていた頃に歩いて来た人もいたでしょう。そういった人たちの間で、交流や混血といった形で組み合わさり、そして日本人が形成されてきたのです。

 その結果、日本人のものの考え方は、周囲の環境に強い影響を受けてきました。少ない資源を皆で仲良く分け合い、助け合いながら生きていかないといけない。日本はそういう社会でした。そういう環境下で思いやりやいたわり、色々なことに対応できる能力などが培われてきたのです。

 特に私たち日本人は、謙譲の美徳とか、日本人は謙虚であるなど、いろいろな言い方をします。では、その「謙譲の精神」とは一体何か。これは、日本が島国であるから、そういうことが重視されてきたわけです。

 こうした結果、日本人の精神性とは、非常に思いやりがあり、あたたかくて、しかもいたわり合うというものです。

 現在失われつつある日本人の良さを再度呼び起こしたい。

 そんな思いから「養父の保育と教育から日本を変える」と声を上げて、活動しています。」

と、綴られていた。

「神武天皇建国の詔までカバーしてる守備範囲は異常だろ、あの人どんな守備範囲なんだ?」

呆れる健介は、考えてるようで、自分は何も考えずに生きていたんではないかと反省していた。

もう一つ健介の脳裏に過ったのは、あの人暇だったんだろうなということだった。

エンジニアとしては優秀である健介も、なかなか人生とはということになるとまだまだ未熟だと実感していた。

売れっ子フリーランスエンジニアとサラリーマンでは、思考に使える時間は全く違うという言い訳が頭をよぎる。

そんな時、あの人の言葉が頭を駆け巡った。

「なんで給料安いサラリーマンしてるかって?

最低限の労働で安い給料と時間が手に入るからかな、自分の時間を切り売りしてるのがサラリーマンと言われるけど、そんなの普段何も考えてないやつの聞くに値しない意見だ。

片手間で出来るレベルの労働をしながら、一日8時間も思考時間をくれるんだぜ。

しかも考えてれば仕事してる雰囲気出てるし、お金貰えて思考時間くれるなんて最高じゃない?」

まさしく自分本位なクズ発言だ。

あの人はけして聖人君子ではない。

「楽な仕事ばかりじゃないでしょ?

出世できないし。」

「お金や出世が第一ならそこに力を使うべき。

俺は第一が妻、第二が養父市の保育と教育から日本を変える、仕事は下から二番目ぐらいかな。

妻の希望の安定収入と幼児教育の推進を天秤にかけて自分のできる最善の選択をしてるつもりだし、君と同じでサラリーマンであってもしたくない仕事は普通に断るよ。」

そんなこと言ってたな。

健介は、残っているブログの記事内に、自叙伝なるものを発見した。

自分の知らないあの人を知れるかもしれないというワクワクから記事を開いてみた。

「1.突然の出来事

平成26年11月15日

私は、娘をスイミングスクールに連れて行った後、帰宅し、リビングで娘と遊んでいた、その時は胡坐をかいていたが、急にバタッと左側に倒れた。

どうしたのかと思い、もう一度座りなおそうと思ったが、フラフラして何度も左に倒れてしまう。

助けを呼ぼうにも呂律が回らない。

異変に気付いた妻が救急車を呼んでくれたようで、救急隊が部屋に入ってきた。

そのままストレッチャーに乗せられたところで意識を失った。

2.死にぞこなった

右側頭部の引っ張られるような痛みで目を覚ます。

目を開けると疲れ切った表情の両親と妹夫婦、生まれたばかりの姪、そして妻と娘。

何かあったんだと思った矢先、右手にペンチを持ち、左手に血まみれのホッチキスの芯が入った袋を持っている医師が、

「右脳出血です。」と一言。

これでも福祉大学出身だ。目を閉じ、左足と左手に集中する。

・・・動かない。

「左片麻痺か・・・。」そう呟くと、医師は驚いた表情で、

「詳しいですね。一生寝たきりです。奇跡的に回復して一生車いす生活になります。」

その言葉で、両親の暗い顔の理由が分かった。

私の知る両親は、ちょっとやそっとのことで子供の前で暗い表情をする人間ではない。

3.自殺①

自殺を全く考えなかったかと言われれば嘘になるが、最初病院から、自殺防止用の拘束ベルトを使用しますかという問いに、

「これぐらいで死ぬような子には育ててませんから大丈夫です。」

と母は力強い声で言った。

実際中途障碍者は自殺率が先天性障碍者に比べ圧倒的に高い。

しかし、私はそんな母の言葉に救われました。

そして今の私があるのは100%母のお陰です。

4.魔法の言葉と無敵の笑顔

寝たきりの私、まずすることは自力で寝返りをうつことです。

しかし、人間の半身は想像以上に重い。

右方向に寝返りをうとうとすると、動かない左腕が付いてこず、無理やり動くと肩を脱臼するらしい。

痛いのは嫌だと思いながらひたすら寝返りを練習、

不思議なもので、母からの「あなたなら絶対できるよ」って言葉は凄い力になる。

失敗してもうだめだ俺なんかと思っても、母の笑顔を見ると無条件で大丈夫だと思わせてくれる。

その結果、寝たきり→寝返り→座位とやってこれた。

これ何かに似てません?

そう子供の成長です。

ということは、次は、立ち上がりと掴まり歩きです。

ちなみにハイハイは?って思った方、ハイハイは今でもできません。

5.リハビリ室でリハビリ開始

車いすでリハビリ室まで行くと、クマのような男性PTさんが満面の笑みで待っていた。

「岡さん!僕は本気ですよ!」

第一声である。

「岡ですよろしくお願いします。

 もう歩けるって決めてますんで大丈夫です。」

今思うと生意気だったかな。

膝まである長下肢装具?っていうのかわかりませんが、がっちり固めて歩行訓練、動く右手で手すりを持ち、PTさんは左からがっちり支えてくれている状態で、一歩づつ三歩歩いた。

息は切れ、滝のような汗、内心「こんなにきついのか・・・。」

って弱音を吐きそうに。

すると、部屋いっぱいに「歩けてるよ!その調子!」

と母が満面の笑みで声をかけてくれていた。

これを世間では歩けているとは言わないだろと、笑ってしまった。

そうです。例えば、小さい子供が立ち上がって一歩出して転んだ時、他人は転んだって思いますが、お母さんは、どういいます?

「今歩いたよね!凄いその調子!」って言いませんか?

その声が子供に信じられない力を与えます。

それを今でもお子さんにされてますか?

6.リハビリの専門病院へ転院

病状も安定したので、急性期からリハビリ病院へ転院した。

兵庫県下でも評判のいい県立のリハビリ病院だ。

転院当日、あることを言われる。

「どんな話をきいてここに来たか分からないけど、ここのカリキュラムだけじゃ思ったように回復はしませんよ。

 自分で学習して、いっぱい自主練してくださいね。」

この言葉は私にとって幸運だった。

元々「あそこには入れたら治ったようなもんだ」という噂が多かったし、私もそうなんだと思い始めていたからだ。

7.リハビリ開始

理学療法・作業療法・言語療法を一日にこなすスケジュールを立ててくれた。

全員女性の療法士さんで、一番衝撃だったのは、最初の検査で、

鉛筆を手に取り、「これは何ですか?」って聞かれたことだ。

「えっ」内心動揺した。

「これ見て消しゴムっていう人もいるんですよ」

すかさず、説明してくれる。

おそらく私が呆気にとられていたからだろう。

なんでも、鉛筆と分かって鉛筆と言っているのに、口からは消しゴムと音が出てしまったり、鉛筆と認識しても、呼び名は消しゴムだと記憶がめちゃくちゃになってしまっていたり、そもそも鉛筆だと認識できなかったりと、同じ脳卒中の障害でも、死んだ脳神経の部位によって残る障害は十人十色のこと。

不謹慎だが、内心で「ラッキー」って思った。

左半身は麻痺だが、意思疎通は問題ないし、高次機能障害もないから働ける。

と思ったのも束の間、次のテストが始まった。

計算問題で、フラッシュ暗算の耳で聞くバージョンで、2桁の足し算をCDの音声に合わせて計算していく、パッパッパッっと数字が読み上げられる。まったく付いていけない。

全て終わって、「それでは答えは?」「わかりません」

私は、はっきりと答えました。「元からできません」

みんなできるのって思い不安になったが、言語聴覚士さんは、笑顔で、そうですかとだけ言い次に進みました。

それからは、毎日決められたカリキュラムをこなし、リハビリの情報を携帯で仕入れ、ネットで本を購入し、勉強と療法士さんに相談し自主練も開始した。

8.外泊許可

日々のリハビリと自主練のお陰で、車いすでならかなり行動範囲が増えていた。

そんな時婦長さんから、「大晦日から一泊自宅に帰られますか?」

と尋ねられた。

恐らく日々の頑張りにご褒美を暮れるといった意味と、退院後に必要な動作を実際に体験してリハビリのカリキュラムにフィードバックするという意味があったのだろう。

私は、とても嬉しかったです。

なぜなら、久しぶりに家族三人で寝たり食事したり、楽しめるからです。

しかし、このことが私をどん底に突き落とします。

外泊当日、妻の迎えを病室でソワソワしながら待っていた。

車は、ワンボックスタイプで、うまく乗り込めるかわからないので、看護師さんとPTさんも駆けつけてくれていた。

妻が到着したので、車いすから車に移乗し、自宅のマンションに帰る。

2LDKの大きくないマンションだが、新築だったこともあり基本バリアフリーだった。

しかし廊下が車いすが通るには狭い。

色んな不便を感じたが、病院に戻ったら克服するリハビリメニューを考えてもらうために、事細かに情報を書いていった。

そして、家族3人での夕食の時間になった。

今から振り返ると、本当に楽しい家族3人の最後の時間だった。

食後に、妻から話があると言われ、

娘を寝かせた後に、

「離婚してください」

と一言。

内心、少し覚悟はしていた。

障害の受容

主に中途障碍者や先天的障害を持った子どもの両親が、

その生涯を受入れること。

世間一般には、自分ではどうすることもできない事から、

感情を押さえつけ今後の人生すら諦めてしまうこと。

と、とらえられがち、苦しみもがくことから抜け出した様は、

本人にとっては諦めでも、接している周りからすると受容に写ってしまう。

問題点:障害の受容は頑張ればできるという思い込みを医療関係者ももっていること。

また、周りの健常者から受容するよう励まされ期待されること。

そんな甘いものではない。

9.一時帰宅からの帰院

一泊二日の一時外泊の夜に、離婚を宣告され、考える余裕もなく、まともな返事もせず、娘の寝顔を見ながら泣き疲れていた私だが、妻の運転する車で、病院に帰りました。

受付を済ませると看護師さんがロビーまで迎えに来てくれたが、私を見るなり驚いた表情を見せた。

恐らくだが、かなりひどい表情をしていたに違いない。

それからは、何があったのか聞かれたり、カウンセリングのようなものを何度か受けた。

妻に対して「一番大変な時に、離婚を言い出すなんて人としてありえないという」類の言葉もいろいろ聞いたが、私が言われてもっとも違和感があった言葉は、

「岡さん、生きていれば必ず良い事があるから絶望せずに頑張りましょう。」であった。

この言葉には2つの違和感がある。

「生きていれば必ず良い事がある」これ本当ですか?

無責任すぎない?というのがこの言葉を聞いた私の感想です。

さらに、「絶望せずに頑張りましょう」あなたから見て、私の残りの人生ってそんなに真っ暗闇ですか?

少なくとも現時点で絶望していないし、未来に希望はなくてもそんなに暗い未来を描いているわけではなかった。

まあ取りようによっては捻くれているように見えるかもしれませんが、当時の私は捻くれていたし人間不信でした。

自分の精神を崩壊させない防衛反応だったのかもしれません。

なにより、それまで気を張って家族のためにと頑張っていたリハビリに対する意欲が無くなりました。

精神的な意味では、あの時点で一度死んだと思っています。

10.生き返るために

そんな時期に私が行っていたことは、自己受容するために、何も足さず、何も差し引かず現状の自分と向き合うことだった。

日中はやる気なくリハビリをこなし、夜は、毎日布団をかぶり嗚咽を漏らしながら自分を客観視して受け入れ続けた。

正確には覚えていないが2週間は続けたと思う。

これこそ生みの苦しみだと信じ、一度死んだ自分を再び立ち上がらせるために、革新はなかったが、自分の信じる方法で追い込み続けた。

結果、全てを受け入れ何もない空っぽの私が出来上がった。

今思えばあの頃が最も「悟りの境地」に近かったのだろうと思う。

しかし、心は完全に燃えてきていた。

生き返ったのかとどめを刺したのか分からない状況だったが、ここで、自分に新しい魂を入れる切っ掛けがやってきた。

11.娘との約束

ある日、離婚の話を進めるべく、妻が娘を連れて病院にやってきた。

親権は妻、働けると思っておらず、日常生活もままならないと思っていた妻は、慰謝料養育費の請求もせず、ただ別れてほしいという事らしい。

私は、既にどうでも良かった。

前述したとおり空っぽだったからだ。

しかし、そこに切っ掛けとなる娘が声を掛けてきた。

当時6歳であった娘が妻が席をはずした時に、

「私は、お父さんが元気になったら、手を繋いでお散歩したい。」

といってくれたのだ。

その時は、嬉しくて咄嗟に「良いよ。動物園に行こうね。」と約束した。

この約束が、私が娘に出来る最後のことだろうと思い。

娘と約束して、リハビリに命を懸けると誓った。

12.地獄のリハビリ

まずは、現状確認。

・杖有歩行で20m

・杖なし歩行で5m

・バランス感覚の喪失により転倒の危険性大

・連続歩行20mで、脳が焼き切れるほど消耗する。

条件と目標

・手を繋ぐため杖は使えない。動物園と考えるなら、余裕をもって2kmは杖なし歩行する必要あり。

以上の目標を立て、リハビリ開始。

勿論主治医には反対された。 不可能だし、リハビリのきつさは想像を絶するということだった。

しかし、娘に対して叶えてあげられる最後の約束かもしれないと思ったら、やらないという選択肢はなかった。

毎日限界ギリギリのリハビリを続け、空いた時間は、病室でスクワットやリハビリルームで歩行の自主練を繰り返し、遂に、退院の時には杖なし歩行4kmが可能になっていた。

5.リハビリを終えて思ったこと

リハビリを終えて分かったことは、「神は乗り越えられる試練しか与えない」というのは、条件付きの真実であるということだ。

その条件とは、強烈な動機を与えてくれる存在がいることと、サポートしてくれる人がいることということだということが、私の経験が証明になると思う。

13.退院の日

入院した日から6か月が過ぎていた。

色々あったが内心は、もう少しリハビリをしたかった。

しかし、国の制度では発症から6か月で症状固定と言って、その時点で回復期が終わり、症状が固定されるとなっている。

だからこそ、このタイミングで障碍者手帳を申請し、発行してもらうという手続きをとるのだ。

退院までの思い出を色々思い出してみた。

意識が戻った時の頭の痛み、急性期病院でのキツいリハビリ、喉が渇いても水分禁止だった地獄の日々、のちにメンターになる隣のベッドのおじいさんとの出会い、早く良くなろうとベット脇で一人で自主練しようとしてコケて看護師さんにマジギレされたこと、本当に色々な事や出会いや別れがあった。

結局、自分が障碍者になり体の機能を失うより最愛の娘と離れ離れになることの方が辛いという事は身に染みて理解した。

よく、障碍者になることで本当に大変で辛かったですね。と皆さん行ってくださるが、

経験者から言わせると、30年も生きれば障碍者になるよりも辛く大変なことなど経験済みである。

そんなふうに色々考えていると、両親と妹家族が病室に迎えに来てくれた。

11/15に一度死んで、2/12に再び生を得て、2度目の人生の本番のスタートは杖なしの二足歩行で幕を開けた。

14.無気力な日々

退院してからと言うもの、仕事の復帰が決まり、通勤の練習や一人でリハビリの日々だったが、毎日スムーズに生活できていたのは、整った病院内だったからという事に気付いた。

途中怖くて外に出られなくなりました。

15.外の世界の恐怖

病院ってバリアフリーだし、みんな病人だし、患者に優しくて世間とは全く違う守られた空間なんです。

そりゃそうだろうって思いますよね

私はそれを本当の意味で分かっていなかったのです。

リハビリ入院中は、杖なし歩行4kmを記録し、普段の入院生活に不自由することはありませんでしたし、退院したら近所の公園で散歩を日課にしようと思ってました。

ところが、初めて公園に行く日、自宅から10分の距離だが横断歩道が2つある。

人生で初めてドキドキしながら横断歩道を渡った。

途中で足がもつれたらどうしよう、左折待ちの車にクラクション鳴らされて、びっくりして、足が動かなくなったらどうしよう、そんなことを考えながらなんとか渡ったところで、次の信号待ちをしている10人ほどの人たちの憐れむような視線を感じた。

内心、もう無理だと思ったが、やると決めたらやるほうなので、横断歩道を渡り公園に到着。

この時点で、心は帰りの横断歩道の恐怖に捉われていた。

病院のリハビリ室では4km歩けた。その自信が心の支えだったが、

公園で親子やランナー、自転車、ウォーキングするお年寄りに、どんどん抜かれ、

皆の憐みの視線を受け続けた結果、500m程で足が震えて前に出なくなった。

この時の絶望は今でも覚えている。

4km歩けて右手が通常通り動けば仕事ができると思っていたからだ。

そして階段もネックになった。

日本って左側通行なんですよ。手すりも左についてて、でも私は右手しか動かないから、

階段降りるときは右側です。前から人が登ってきて、私を見るなり、睨んだり、舌打ちしたり、ぶつかってきたり、何?私は見ず知らずの人にまで体が不自由でって言って歩かなきゃいけないのか?って思ったわけで、この社会のルールじゃ生きていけないんだなと実感しました。

頑張れって言ってくれる人いるけど、物理的にも精神的にも無理やんって思ってました。

想像できますか?

障害者がひきこもるのには必ず理由があります。

常に敵意や疎外や憐みの視線を受けられると分かっている外に、出ていけますか?

障害者は甘えてる。ってよく聞きますが、本当ですか?

16.生きていくにはやるしかない

そのように色々ありましたが、やるしかないと思っていました。

ここでも背中を押してくれたのは娘との約束です。

社会には多くの障害があり、地獄のような電車通勤を続けましたが、会社に着くころにはボロボロだったし、週一の通院からの出勤では、サボっているような言われ方もしていました。

もう好きに言ってくれたらいいと、私はここの世界の住人ではないのだろうという気持ちになっていました。

結局は通勤に耐えられずに退職しました。

17.転職活動

折角障碍者になったので障害者雇用というものを経験してみようと思い、中途障碍者専用の転職エージェント会社に登録して、職安と並行して転職活動を行いました。

重度障害者という事で、失業保険も3か月の待機無しでもらえましたし、非常に助かったのを覚えています。

タイミング的にも障碍者雇用促進法が施行されたときだったので、転職に苦労した経験はありません。

結構すんなり三菱系への就職が決まり、念願の障碍者雇用ライフが始まりました。

私が考えたのは会社に守ってもらうというのはリスクが大きいと感じていたので、持っていたカウンセラーの資格を活かすために休みの日はカウンセリングの技術を磨き、これから必要になると予想していたダイバーシティマネジメントを学び始め、プライベートで学び、職場で試すを繰り返し行いポータブルスキルの向上に努めていました。

18.体調不良

仕事自体は非常に順調でしたが、問題も発生していました。

それは、体の不調です。

天気が悪くなれば、鉛のように左半身が重くなったり、立ち上がることすら難しくなるぐらい体調が悪くなったり、思考が混濁したりと、色々な症状が発生してきました。

まだまだ、学べることがある会社だったので、何とか仕事を続けて自分にプラスになる知識や経験を積むことが出来ました。

19.現在の妻との出会い

細かいことは割愛するが、公立病院の看護師をしている彼女と出会い、どこに住んでいるのか聞いたところ「兵庫県です。」という事で同じ県内なら都合がいいと思ったが、当時私は、明石市在住で、妻は養父市だった。

同じ県内だが、車で2時間ほどかかるし、電車では非常に不便だ。

そんな中、時間を見つけては車で、片道2時間かけて養父市に行っていた。

結局、出会って1ヶ月で、プロポーズして8ヶ月で入籍&結婚という順調な運びとなった。

ちなみに、妻と会って初めて養父市と言う地名を知った。

20.養父市に移住

はじめは山奥の限界集落を想像していたが、意外と生活しやすそうな場所でほっとした。

何故なら、私が仕事を辞めて養父市に移住し、妻の地元で生活しようと決めたからである。

最初は賃貸で住んでみることにした。

気楽なアパート暮らしだが、妻からすると一軒家じゃないと息苦しいとのことで、1年後に一軒家の購入を視野に入れつつ養父市生活が始まった。

21.妻のふるさとに元気がないのは悲しい

やはりというか、日本の中山間地帯は少子高齢化が深刻で元気がない。

地元の自治体や政治家さんは子供や移住者を増やそうと頑張っているが、明日から奇跡的に出生率が4.0になっても、もう間に合わないという事実は受け入れ、そんな少子高齢化の中でも維持できる社会システムに変革するという事も少子化対策と並行して行うべきだと、移住2か月目で思いついた。

新しく住む場所なので、色んな人と会って、色んな意見を聞き、自分なりにどうすれば妻のふるさとを元気にできるのか、今後も維持できるのかと考えるようになっていた。

22.自分の持っているものを使う

妻のふるさとを元気にしようと考えている中で、自分の持っているものを惜しみなく使おうと思った。

<自分が持っているもの>

1.           中途重度障害者としての経験

2.           障碍者と健常者両方の視点と思考

3.           カウンセリング能力

4.           ダイバーシティマネジメントを含む、ビジネススキルと経験

5.           幼児教育への情熱

6.           自分を大切にするという考え

無理に押し付ければ、養父市民の方々からすると非常に迷惑だろうというのは勿論分かっているので、養父市以外で養父市活性化に協力してもらえる仲間を集め、自治体に紹介したり、自分の経験や思いを伝え、よりよい養父市になるために使えるところは、いくらでも上手く使ってくださいと提案した。

なぜ、受け身ともいえる方法をとったかというと、明石にいた時は、非常に職員さんも積極的で、使い倒されたので、これだけ養父市を良くしようと言っている自治体職員なら私が積極的に動くより、使いたい時に使ってもらった方が、良いのではと思ったからだ。

23.大きな誤算

待った結果、養父市からのアクションは皆無と言っていい。

今でも、明石市や住んだこともない自治体からは。「ブログに書いてあった考え方を詳しく聞きたい」とか「こんなプロジェクトするんですが、ダイバーシティの観点からチーム編成のポイントを聞きたい」なんていう問い合わせをほぼ毎日頂く。

非常に嬉しいが、現在住んでいる養父市からはないのである。

どうしたものかと目立たないように勝手に養父市の活性化を進める準備をしている日々で、自治体に取り次いだプリジェクトも私が意見を横から言うより、自治体を信頼し任せているので、基本ノータッチだ。

今は、仕事とカウンセリングと勉強とブログとYouTubeと養父市活性化の準備とプライベートでの新たなチャレンジで非常に忙しい。

時間が1日30時間あればと思う日々だが、効率化、習慣化によって自分のしたいことを余すことなく実行できているのは、私の体が不自由で制限があるという多様な視点から解決法を思案したからだと思う。

こういう面も是非自治体運営や組織運営に役立ててもらいたいと思う。

24.住めば都

結局、養父市が好きです。

今まで、東京や明石など、都会も田舎も住んできましたが、今振り返ると最も住みやすいのは明石市ですし、他人との距離感が最も心地よいのは東京です。

あくまで私の感覚ですが、便利なのは明石市です。

しかし、どこが好きかと言われれば「養父市」です。」

このようにブログの自叙伝には、脳出血の発症から養父市に移住してまでが書かれていて、改めてすごい人生だと畏敬の念が生まれた。

まあ、思い出はこのぐらいにして、疑問の一つだった養父に由来に焦点を当ててみよう。

ネットの検索では確かな情報はでてこなかった。

「養父の字に込められた想いとは何なんだろうか?」

まずは分解しようと考えた健介は

「養とは?

やしなう。育てる。世話をする。

体をだいじにする。

心を豊かにする。

これが大筋の意味だ。」

健介は内心知ってるよと思っていた。

「では父とは?

父親

新しい世界を開いて偉大な業績を残した先駆者

キリスト教における神

なるほど、見えてきたぞ。」

健介は遂に謎の尻尾を掴んだと思った。

「新しい世界を開いて偉大な業績を残すような先駆者を輩出するってことか!」

あの人に追いついたと、ここぞとばかりにガッツポーズした。

「馬鹿・・・。」

懐かしい声。

振り返るとあの人がベッドに腰掛けていた。

「えっ?」

呆然としている健介に

「冷たい紅茶 ストレートで、

あと墓参りご苦労、先生に会ったんだってな?」

注文も口調もいつものあの人だ。

「何してるんですか?」

逆に冷静になった。

「先生が、俺が養父に来た理由をお前が知りたがってたが、考えても分からないから教えてほしいとおっしゃれていたので、自分で伝えると言って来たんだ。」

「来れるんすね・・・。」

「その話になると、生とは何か、死とは何か、死は本当に終わりなのか?って話になるけどどうする?」

「興味ありますけど自分にはまだ早いです。」

そこで、ふと我に返り、

「結局、養父に来た理由は何なんですか?」

「言霊を大切にしてたのを知ってたからなのかは知らないが、名前に着目したのは流石だった。

ただ、頭良すぎて深読みしすぎだ馬鹿。」

どっちだよと思う健介を置いて話をつづけた。

「新しい世界を開いて偉大な業績を残すような先駆者を輩出する。今度から格好いいからそう答えようかなwww。

本当の理由は、そのまま養父だ。」

「んっ?

どういうことですか?」

「俺の生き方の軸の話は覚えてるか?」

「自分を大切にできる人達を増やして、日本を変えたい。ですよね」

「正解、そのために必要なことは幼児教育だと確信したからこそ、体を大事にする・心を豊かにするっていう養の教育の本拠地に養父を選んだ。」

「へ~。じゃあ父部分は?」

「そんな教育の場で、自分を大切にする教育の父になる。」

ちゃんと考えてるんだなと、健介は感心した。

「なれました?」

「相変わらず意地が悪いな。

道半ばで終わったよ。」

「でも楽しかったんでしょ?」

「そうだな、移住してよかったと今では思える。

親切な人にもたくさん出会えたし、同じ志を持つ人にも会えた。

勿論、田舎で新しいことをしようとすると抵抗も大きかったしな。

今となっては楽しい思い出だ。」

「良い人生でしたね。」

健介は温かい気持ちになった。

「まだ、終わってないけどなwww。」

「どういうことですか?」

「禍福は糾える縄の如しっていうだろ?

人の人生もまたかくの如し。

俺の祖父の言葉だけど、人の人生も次の者が掬って、結んで連綿とその意志は受け継がれていく。

信春先生に聞いたけど、受け継いでくれるんだろ?」

「はい。」

「何でお前から俺が特別に見えたかの答えもそこにある。

祖父から受け継いだ祖先の意志と信春先生の意志、奥さんの明子さんの意志、全部背負えるだけ背負ったから、あんな感じだったんだ。」

「だから、先生と俺の意志を継いでくれるというのは嬉しかったけど、俺は、意志じゃなく俺の生き方を継いでもらいたい。

その生き方を継いでくれれば、俺も先生も祖父もみんなの生き方を受け継だことになると思う。

だから、その机にある名草神社の紅葉のポストカードに、俺の生き方を見て、自分はどう生きるか書いてほしい。」

と言われた。

健介は目を閉じ、あの人の生きざまを思い出し、ポストカードに書こうとした。

「これを使え。」

「これ消えるやつ。」

「時代や考えが変わったら、何度でも書き直せばいい。」

「これは変わりませんよ。」

健介はそう呟くと、涙を浮かべながら書いた。

それを受け取ると、あの人は、書かれた言葉を見て、涙を浮かべながら

「ありがとう」と呟き姿を消した。

床に落ちたポストカードには、

と書かれていた。

そんなポストカードを窓からの風が裏返し、そこに描かれた養父の紅葉は赤々と燃えていた。

“【再掲】自伝的web小説「燃える」” への2件のフィードバック

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