但馬の医療崩壊はもう始まっている|豊岡病院組合・八鹿病院の危機と地域が生き残る条件

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はじめに|病院があることを、私たちは当たり前だと思いすぎていないか
夜中に家族が倒れたとき、救急車を呼べば病院に運ばれる。
高齢の親の具合が悪くなれば、診てもらえる場所がある。
子どもが急に熱を出せば、相談できる医療機関がある。
障害や持病があっても、定期的に通える病院がある。
私たちは、どこかでそれを当たり前だと思っています。
けれど、その「当たり前」は、本当にこれからも続くのでしょうか。
但馬の医療は、本当にこのままで大丈夫なのでしょうか。
豊岡病院組合の財政悪化。
八鹿病院の経営課題。
地方公立病院の赤字。
医師不足。
看護師不足。
介護人材不足。
高齢化。
人口減少。
救急医療の維持。
自治体財政の限界。
医療従事者の燃え尽き。
こうした言葉を並べると、どこか行政資料や議会資料の中の話に見えるかもしれません。
しかし、これは資料の中だけの話ではありません。
親の命の話です。
自分の老後の話です。
子どもを育てる安心の話です。
障害があっても地域で暮らせるかどうかの話です。
但馬という土地で、これからも人が生き続けられるかどうかの話です。
病院は今日も開いています。
外来も動いています。
救急車も走っています。
医師も看護師も介護職も、今この瞬間も働いています。
だから、多くの人はまだ「本当に医療崩壊と言うほどなのか」と感じるかもしれません。
けれど、地方医療の崩壊は、ある日突然、病院の扉が閉まる形で始まるとは限りません。
本当に怖い崩れ方は、もっと静かです。
診療科が少しずつ細る。
夜間救急が少しずつ厳しくなる。
医師が集まりにくくなる。
看護師が辞めやすくなる。
病床を動かしにくくなる。
高齢者の通院が難しくなる。
障害のある人が受診を続けにくくなる。
家族が付き添いのために仕事を休まざるを得なくなる。
介護職や訪問看護師の負担がさらに重くなる。
病院の建物は残っている。
看板も残っている。
受付も開いている。
それでも、必要な人が、必要なときに、必要な医療へたどり着けなくなっていく。
これが、地方医療崩壊の本当の怖さです。
但馬の医療危機は、もう遠い未来の話ではありません。
すでに始まっていると見たほうがいい。
豊岡病院組合では、内部留保の悪化や起債許可団体への転落が懸念され、自治体への多額の貸付要請も現実のものとなっています。
八鹿病院を含む公立八鹿病院組合でも、病院事業の大きな純損失が示されており、但馬の地域医療が構造的に厳しい局面に入っていることは否定できません。
これは、単なる一時的な資金繰りの問題ではありません。
但馬という地域が、これからも人が住み続けられる土地であり続けられるのか。
その問いが、いま私たちの目の前に突きつけられているのです。
私は中途重度障害者として、この問題を他人事として見ることができません。
医療は、あれば安心なものではありません。
通えなければ意味がない。
間に合わなければ意味がない。
続けられなければ意味がない。
必要な人に届かなければ意味がない。
地方医療の崩壊とは、病院経営の悪化だけを指すのではありません。
弱い立場の人から先に、生きる条件が削られていくことです。
この記事では、豊岡病院組合と八鹿病院を入口に、但馬の地域医療で何が起きているのか、なぜこのままでは危ないのか、そして但馬が地域として生き残るために何が必要なのかを考えます。
そして同時に、今この地域を支えている医師、看護師、介護職、救急隊員、薬剤師、リハビリ職、事務職、清掃や給食、送迎、地域交通に関わる人たちへの感謝も、忘れてはいけないと思っています。
地域医療は、制度だけで動いているのではありません。
誰かの出勤で動いています。
誰かの夜勤で動いています。
誰かの責任感で動いています。
誰かの疲れた体で、今日も何とか支えられています。
そのことを、私たちはもっと真剣に受け止める必要があります。
この記事で伝えたい結論
但馬の医療危機は、病院の赤字だけの問題ではありません。
本質は、
この地域で必要なときに必要な医療へたどり着ける条件が、少しずつ失われていること
にあります。
豊岡病院組合の財政悪化。
八鹿病院の経営課題。
人口減少。
高齢化。
医師不足。
看護師不足。
働き方改革。
自治体財政の限界。
医療従事者の燃え尽き。
これらは別々の問題ではありません。
すべてがつながり、但馬の地域医療を静かに削っています。
そして医療が弱れば、地域の暮らしも弱ります。
親の介護。
自分の老後。
子育て。
障害のある人の通院。
救急搬送。
在宅医療。
家族の働き方。
地域に住み続ける安心。
すべてが医療とつながっています。
だからこそ、但馬の医療危機は、医療関係者だけの問題ではありません。
この土地で生きる私たち全員の問題です。
1. 但馬の医療危機は「病院の赤字」だけでは語れない
豊岡病院組合の財政悪化や、八鹿病院を含む地域医療の苦しさを語るとき、どうしても「赤字」や「経営」という言葉が前に出ます。
もちろん、財政は重要です。
病院が赤字を出し続ければ、自治体財政を圧迫します。
設備更新も難しくなります。
人材確保のための投資も弱くなります。
医療機器、情報システム、施設改修、職員教育、働き方改革への対応も遅れます。
しかし、但馬の医療危機を「病院の赤字問題」とだけ見てしまうと、本質を見誤ります。
問題は、会計上の数字だけではありません。
この地域で、必要なときに必要な医療を受けられる人が、少しずつ減っていくことです。
外来の待ち時間が長くなる。
救急の受け入れが厳しくなる。
診療科の維持が難しくなる。
専門的な医療を受けるために遠方へ行かなければならなくなる。
高齢者や障害者にとって通院そのものが負担になる。
家族が仕事を休んで付き添う必要が増える。
介護と医療の接続が弱くなる。
これらはすべて、住民の生活に直結します。
つまり、但馬の医療危機は病院だけの問題ではありません。
地域で暮らし続けられるかどうかの問題です。
2. 起債許可団体転落の本質は「借金」ではなく未来投資の制限である
起債許可団体という言葉は、一般の住民には分かりにくい言葉です。
一見すると、単に「借金が増えた」「財政が悪化した」という話に見えるかもしれません。
しかし、本質はもっと重い。
起債許可団体への転落が意味するのは、単に借金が増えたことではありません。
自由に未来投資できる余力が削られることです。
病院経営は、今日だけを回せばよい仕事ではありません。
医療機器を更新する。
情報システムを整える。
施設を改修する。
人材を採用する。
若手を育てる。
看護師を定着させる。
業務改善を進める。
医療DXを導入する。
当直や救急体制を維持する。
これらはすべて、未来の診療を守るための投資です。
財政の自由度が落ちると、最初に削られやすいのは、こうした未来投資です。
設備更新を遅らせる。
人材投資を抑える。
待遇改善を見送る。
職員教育を後回しにする。
業務改善が進まない。
現場の負担が減らない。
すると何が起きるか。
働きにくくなる。
人が辞めやすくなる。
採用で不利になる。
残った職員の負担が増える。
さらに人が辞める。
この循環が始まると、病院は会計が完全に壊れる前に、まず「人が残らない職場」になっていきます。
地域医療で本当に恐ろしいのは、数字の悪化よりも先に、人材市場で負け始めることです。
3. 豊岡病院組合は象徴であり、八鹿病院はより厳しい現実を映している
豊岡病院組合の問題は、但馬の医療危機の象徴です。
規模が大きく、但馬の中核的な医療機能を担っているからです。
しかし、地域医療が先に苦しくなるのは、必ずしも最も大きな病院からではありません。
むしろ、人口減少や人材不足の影響をより強く受ける場所から、先に厳しさが表面化します。
その意味で、八鹿病院が抱える現実は非常に重いものです。
但馬では人口減少が続いています。
若い世代が減り、高齢者の比率が高まっています。
ここで起きるのは、単純な患者減ではありません。
外来を支える現役世代は減っていく。
一方で、高齢者医療、慢性疾患、複合疾患、救急、退院支援、在宅連携の必要性は重くなる。
つまり、地方の病院は、患者が減れば楽になるわけではありません。
医療の中身が重くなるのです。
高齢者医療は、時間がかかります。
退院調整にも手間がかかります。
家族支援も必要になります。
介護との連携も必要になります。
慢性疾患は継続的な管理が必要です。
収益以上に、現場の負担が増えやすい。
ここに医師不足、看護師不足が重なると、病院は努力だけでは耐えられなくなります。
4. 住民にとっての医療崩壊は「病院が消えること」だけではない
多くの人は、医療崩壊と聞くと、病院そのものがなくなることを想像するかもしれません。
しかし、地方における医療崩壊は、もっと静かに進みます。
診療科が減る。
夜間救急が弱くなる。
外来の待ち時間が延びる。
入院できる病床が減る。
専門医に診てもらいにくくなる。
救急搬送先が遠くなる。
退院後の支援が薄くなる。
通院のために家族の負担が増える。
病院の建物は残っている。
看板も残っている。
外来も動いている。
それでも、地域で受けられる医療の範囲が狭くなっていく。
これこそが、地方医療の静かな崩壊です。
但馬のように広い地域では、距離と時間が命に直結します。
都市部なら、ひとつの病院が難しくても別の病院へ行けるかもしれません。
しかし地方では、代替先が簡単にはありません。
病院が「ある」ことと、医療に「間に合う」ことは違います。
地域医療で本当に問うべきなのは、病院があるかどうかではありません。
必要な人が、必要なときに、必要な医療へたどり着けるかどうかです。
5. 2024年問題は、地方医療の無理を隠せなくした
医療の働き方改革は、本来、医療者を守るためのものです。
医師や看護師が過重労働で壊れないようにする。
現場の無理を前提にしない。
持続可能な医療体制をつくる。
その方向性自体は、必要であり、正しいものです。
しかし地方医療においては、働き方改革によって、これまで見えにくかった穴が表面化しました。
なぜなら、地方医療は長い間、制度ではなく現場の無理で支えられてきた面があるからです。
足りない分は残業で埋める。
足りない分は当直で埋める。
足りない分は使命感で埋める。
足りない分は看護師の踏ん張りで埋める。
足りない分は医師の責任感で埋める。
この暗黙の前提が、地方医療にはありました。
しかし、働き方改革によって、その無理が制限されます。
すると、これまで隠されていた供給不足が一気に見えてきます。
これは、医療者が弱くなったという話ではありません。
これまで、無理をしすぎていたという話です。
誰かの過重労働や使命感を前提にした医療は、最初から持続可能ではありません。
続いているように見えていただけで、本当はずっと危うかった。
その真実が表に出てきているのが、今の地方医療の危機です。
6. エッセンシャルワーカーへの感謝を、きれいごとで終わらせてはいけない
医療や介護を支えている人たちは、まさにエッセンシャルワーカーです。
医師。
看護師。
介護職。
救急隊員。
薬剤師。
リハビリ職。
検査技師。
放射線技師。
医療事務。
相談員。
ケアマネジャー。
訪問看護師。
清掃、給食、送迎、設備管理に関わる人たち。
この人たちがいるから、地域の暮らしは成り立っています。
私たちは病院を「建物」として見がちです。
しかし本当は、病院を動かしているのは人です。
夜勤をする人がいる。
救急を受ける人がいる。
認知症の高齢者に向き合う人がいる。
家族の不安を聞く人がいる。
患者の体を支える人がいる。
誰かの排泄、食事、入浴、移動を支える人がいる。
泣きたい日でも、現場に立つ人がいる。
地域医療や介護は、そうした人たちの働きによって維持されています。
だから、感謝は必要です。
ただし、感謝だけでは足りません。
「ありがとう」と言いながら、低賃金や過重労働を放置する。
「尊い仕事」と言いながら、人手不足を現場の我慢に押しつける。
「使命感がある人たちだから」と言いながら、制度設計を後回しにする。
それでは、感謝ではなく、善意への依存です。
本当に感謝するなら、現場の人が壊れない仕組みを作る必要があります。
休めること。
辞めずに続けられること。
生活できる賃金があること。
学べる環境があること。
相談できる職場であること。
理不尽なクレームや暴言から守られること。
子育てや介護と両立できること。
感謝とは、言葉だけではありません。
エッセンシャルワーカーが壊れずに働ける社会を作ることです。
7. 中途重度障害者の視点で見ると、医療崩壊は「到達可能性の喪失」である
私は中途重度障害者として、医療の問題を単なる制度論として見ることができません。
障害を抱えて生きる人間にとって、病院は「たまに行く施設」ではありません。
定期受診。
服薬管理。
再発予防。
急変対応。
リハビリ。
福祉との接続。
介護との連携。
生活を維持するための医療的判断。
医療は、生活の土台そのものです。
地域医療が弱るということは、暮らしの選択肢が削られるということです。
ここで重要なのは、到達可能性です。
通えるのか。
間に合うのか。
継続できるのか。
冬でも行けるのか。
家族の支援なしでも受診できるのか。
救急時に搬送できるのか。
退院後に地域で暮らし続けられるのか。
障害者、高齢者、慢性疾患のある人にとって、距離と時間は単なる不便ではありません。
治療継続の可否そのものです。
だから、広域連携や機能集約が必要だとしても、美しい言葉だけで済ませてはいけません。
医療を集約すれば効率は上がるかもしれない。
しかしその一方で、間に合わない命、通えなくなる人、継続できなくなる患者が増える可能性もあります。
地方医療においては、効率化と到達可能性を同時に考えなければいけません。
8. 表面的な平等は、地方では弱い人から先に崩れる
医療制度は、表面的には平等に見えます。
誰でも病院を受診できる。
誰でも保険制度を利用できる。
誰でも医療を受ける権利がある。
しかし、現実には「行ける人」と「行けない人」がいます。
車を運転できる人。
家族に送迎してもらえる人。
仕事を休める人。
体力がある人。
お金と時間に余裕がある人。
そうした人は、多少遠くても医療にアクセスできます。
一方で、障害のある人、高齢者、独居の人、介護を抱える家族、低所得の人は、医療アクセスが一気に難しくなります。
病院が遠くなる。
待ち時間が長くなる。
通院回数が増える。
専門医が地域から減る。
そのたびに、先に苦しくなるのは弱い立場の人です。
だから私は、但馬の医療危機を単なる病院経営の問題とは見ません。
この土地で、弱い立場の人が生き続けられるかどうかの問題として見ています。
9. これからの地方は「医療がある地域」と「医療に届きにくい地域」に分かれていく
これからの地方を考えるとき、医療は避けて通れません。
人口が減る。
高齢者が増える。
若い医療従事者が都市部へ流れる。
自治体財政が厳しくなる。
病院の維持費が重くなる。
医師の働き方改革で、これまでの無理が通用しなくなる。
看護師や介護職も、使命感だけでは働き続けられなくなる。
この流れの中で、地方は少しずつ分かれていくと思います。
医療にたどり着ける地域。
医療にたどり着きにくい地域。
救急が機能する地域。
救急搬送に時間がかかる地域。
高齢者が暮らし続けられる地域。
高齢者が家族の支援なしでは通院できない地域。
障害があっても暮らせる地域。
障害があると受診や移動が難しくなる地域。
子育て世帯が安心できる地域。
病気や救急への不安から若い世代が離れていく地域。
これは、地方の未来を大きく分ける条件になります。
仕事があるか。
学校があるか。
買い物ができるか。
交通があるか。
そして、医療が届くか。
このすべてがそろって初めて、人はその地域に住み続けられます。
つまり、地域医療は単なる福祉や行政サービスではありません。
地域の存続条件です。
10. 但馬の医療を再生するには、祈りではなく設計が必要である
ここまで来ると、もう「地域医療は大事だから守ろう」という掛け声だけでは足りません。
必要なのは、設計です。
しかも、現実を直視した設計です。
すべてを今まで通り守りたい。
それは当然の感情です。
しかし、人口も人材も財政も限られる中で、すべてをそのまま維持することは難しくなっています。
だからこそ、まず必要なのは、守る医療と守り方を言語化することです。
救急をどう守るのか。
小児をどう守るのか。
周産期をどう守るのか。
透析をどう守るのか。
脳卒中や心疾患への対応をどうするのか。
慢性期医療をどう支えるのか。
在宅医療と介護をどうつなぐのか。
この議論を避けたまま、「何とかなるだろう」で進めることが一番危険です。
地域医療は、願えば守れるものではありません。
設計しなければ守れません。
11. 豊岡病院と八鹿病院は「競合」ではなく役割分担で考えるべきである
但馬の医療を守るうえで重要なのは、病院同士を個別に見ることではありません。
豊岡病院を守る。
八鹿病院を守る。
それぞれ単独で考える。
もちろん、各病院の経営は重要です。
しかし、但馬全体で見れば、必要なのは個別最適ではなく、地域全体の最適化です。
豊岡病院と八鹿病院は、競合ではありません。
但馬で暮らす人の命を支えるために、役割を分けながら機能しなければならない存在です。
救急。
急性期。
回復期。
慢性期。
在宅医療。
介護連携。
退院支援。
地域包括ケア。
これらをどの病院が、どの機能として担うのか。
その役割分担を曖昧にしたまま、それぞれの病院だけに努力を求めても、地域医療は持ちません。
但馬の医療は、どこか一つの病院が単独で抱えきれる規模ではありません。
豊岡病院。
八鹿病院。
診療所。
訪問看護。
介護事業所。
薬局。
行政。
地域交通。
家族支援。
これらをひとつの仕組みとして考えなければ、地域医療は持ちません。
病院を個別に守るのではなく、但馬という地域で医療機能をどう配置するか。
この視点が必要です。
12. 人材戦略は「募集」ではなく「残る設計」へ変えなければならない
地方病院が人手不足になると、よく「募集」が語られます。
医師を募集する。
看護師を募集する。
介護職を募集する。
技師を募集する。
もちろん募集は必要です。
しかし、募集だけでは人は定着しません。
重要なのは、残る設計です。
記録業務を減らす。
タスクシフトを進める。
夜勤や当直の負担を見直す。
教育環境を整える。
休息を確保する。
ハラスメントを防ぐ。
若手が学べる環境を作る。
子育てや介護と両立できる働き方を設計する。
医療DXを「現場を本当に楽にする目的」で導入する。
人が辞めにくい構造を作らなければ、何度募集しても穴は埋まりません。
地方公立病院の危機は、人材市場での競争でもあります。
医療者にも人生があります。
家庭があります。
生活があります。
学びたい気持ちがあります。
守られたい気持ちがあります。
理念だけで人は残りません。
使命感だけで人をつなぎ止める時代は、もう終わっています。
13. 財政支援は必要だが、延命ではなく再設計に使うべきである
地方公立病院を守るために、財政支援は必要です。
しかし、ただ赤字を埋めるだけでは、危機を先送りすることになります。
必要なのは、延命ではなく再設計です。
何を残すのか。
何を変えるのか。
どの機能を集約するのか。
どの機能を地域に残すのか。
診療所、訪問看護、介護、行政とどう役割分担するのか。
住民の移動手段をどう支えるのか。
医療者の働き方をどう守るのか。
いつ検証し、どう改善するのか。
財政支援は、未来を買うためのお金でなければなりません。
単なる穴埋めではなく、地域医療を作り直すための投資であるべきです。
14. 病院を単体で守るのではなく、地域医療のOSとして再設計する
地方医療を守るには、病院だけを見ていては足りません。
病院を地域医療の中心、つまり地域医療のOSとして捉え直す必要があります。
病院。
診療所。
訪問看護。
介護事業所。
薬局。
行政。
家族支援。
地域交通。
福祉制度。
在宅医療。
これらがバラバラでは、地域医療は持ちません。
入院してから守るのではなく、入院しなくても済むように守る。
悪化してから対応するのではなく、悪化させないように支える。
退院して終わりではなく、退院後の生活までつなぐ。
この発想転換が必要です。
特に但馬のような広い地域では、医療と介護と交通は切り離せません。
病院の再編だけではなく、通院支援、在宅支援、家族介護支援まで含めて設計しなければ、住民の生活は守れません。
15. 但馬の未来を残せるかは、医療の設計にかかっている
医療が崩れるとき、崩れるのは病院の建物ではありません。
地域の未来です。
若い世帯が住みにくくなる。
企業が来にくくなる。
高齢者が不安を抱える。
障害のある人が地域に残りにくくなる。
介護を抱える家族が追い詰められる。
子育て世帯が安心を失う。
医療の衰弱は、その土地で生きる希望の衰弱に直結します。
但馬の医療危機は、もう始まっています。
まだ動いているから大丈夫、ではありません。
橋が落ちる直前まで車が走れるように、動いていることは安全の証明ではありません。
むしろ危ないのは、動いているように見える今この瞬間です。
必要なのは、感傷でも美談でもありません。
現実を見ることです。
病院があるのが当たり前という思い込みを手放すことです。
守れる医療を、守れる形に作り直すことです。
但馬の医療を守るとは、弱い立場の人もこの土地で生き続けられる条件を守ることです。
その設計ができるかどうかが、これからの但馬の運命を決めます。
まとめ|但馬の医療危機は、地域で生きる条件そのものの危機である
但馬の医療崩壊は、もう始まっています。
ただしそれは、病院が突然消える形ではありません。
少しずつ診療機能が細る。
少しずつ人材が集まりにくくなる。
少しずつ救急が厳しくなる。
少しずつ通院が難しくなる。
少しずつ家族の負担が増える。
少しずつ弱い立場の人から、生きる条件が削られていく。
これが、地方医療の本当の危機です。
豊岡病院組合の問題も、八鹿病院の苦しさも、単独の病院問題ではありません。
但馬という地域が、これからも人が住み続けられる土地であり続けられるかどうかの問題です。
医療は、地域の土台です。
その土台が揺らぐとき、私たちは自分の人生設計も見直さざるを得ません。
この地域で老いていけるのか。
親を支えられるのか。
障害があっても暮らせるのか。
子どもを育てられるのか。
救急に間に合うのか。
必要な医療へたどり着けるのか。
但馬の医療危機は、病院の問題ではありません。
この土地で、これからも生きていけるのかという問いなのです。
最後の問い
あなたの住む地域で、もし病院の機能が少しずつ弱っていったら。
親の介護はどうなりますか。
救急搬送は間に合いますか。
障害のある人は通院を続けられますか。
高齢者はこの地域で暮らし続けられますか。
若い世帯は安心して子どもを育てられますか。
そして何より、私たちは本当に、但馬の医療がまだ大丈夫だと言い切れるのでしょうか。
CTA

但馬の医療危機を、自分の人生設計として考えるために
但馬の医療危機は、病院だけの問題ではありません。
それは、地域で暮らす私たち全員の問題です。
救急を受けられること。
高齢の親を診てもらえること。
障害があっても通院を続けられること。
病気になっても地域で暮らし続けられること。
介護や在宅医療につながる仕組みがあること。
そのすべては、人生設計の土台です。
もしこの記事を読んで、
「但馬の医療は本当に大丈夫なのか」
「自分の地域はこれからも安心して暮らせるのか」
「医療や介護の問題を、もっと自分ごととして考えるべきではないか」
と感じたなら、次の記事へ進んでください。
関連記事:医療・介護崩壊はなぜ起きるのか|使命感という名の『善意の搾取』で維持される日本の末路
但馬の医療危機は、医療・介護全体の危機とつながっています。
そしてその危機は、最終的に私たちの暮らし方、働き方、老後、家族、人生設計に戻ってきます。
また、現場で支える人たちの限界を知りたい方は、
関連記事:看護師・介護職が燃え尽きる理由
もあわせて読んでください。
地域医療は、誰かの使命感だけでは守れません。
医療者の善意だけでも、自治体の努力だけでも、住民の我慢だけでも守れません。
必要なのは、現実を見ること。
危機を言葉にすること。
そして、地域で生き続けるための条件を、もう一度設計し直すことです。
このブログでは、医療・介護、障害、働き方、地方での暮らし、人生再設計について、私自身の中途重度障害者としての視点も交えながら考えています。
この記事が、但馬の医療を誰か任せにせず、自分たちの地域の未来として考えるきっかけになればうれしいです。
共感していただけたら、ブックマークやシェアで届けていただけると励みになります。
そして、地域医療や介護、障害、人生設計について引き続き考えたい方は、ぜひブログのフォローやYouTubeチャンネル登録もしていただけるとうれしいです。
但馬で生きること。
地方で老いること。
障害があっても暮らし続けること。
家族を支えること。
医療にたどり着けること。
それらを、当たり前だと思える時代は、もう終わりに近づいているのかもしれません。
だからこそ今、私たちは問わなければなりません。
この地域で、これからも生きていける医療を、本気で設計できるのか。

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