欠けている自分を責めてしまうあなたへ
「自分は欠けている」
そう感じる瞬間があります。
以前のように働けない。
身体が思うように動かない。
人より疲れやすい。
頑張っているのに、同じようにできない。
人に頼らなければならない。
できないことが増えた。
昔の自分と比べて、今の自分が情けなくなる。
そして、心のどこかでこう思ってしまう。
こんな自分ではダメなのではないか。
欠けている自分には価値がないのではないか。
前のようにできない人生は、もう失敗なのではないか。
けれど、本当にそうなのでしょうか。
欠けていることは、不幸なのでしょうか。
不完全であることは、敗北なのでしょうか。
できないことがある人生は、価値の低い人生なのでしょうか。
私は脳出血を経て、中途重度障害者になりました。
左片麻痺が残り、それまで当たり前にできていたことが、当たり前ではなくなりました。
歩くこと。
働くこと。
移動すること。
疲れを回復すること。
人に頼らず何でもこなすこと。
それまでの人生では意識すらしていなかったことが、突然、大きな壁になりました。
最初は、自分が欠けたように感じました。
人生の一部が壊れたように感じました。
以前の自分より、価値が下がったように感じたこともあります。
でも、時間をかけて分かってきたことがあります。
欠損は、不幸の証明ではありません。
不完全さは、人生の敗北ではありません。
できないことがあるからこそ、人は世界とつながり直すことがある。
欠けているから、支え合える。
欠けているから、工夫できる。
欠けているから、無理な生き方を見直せる。
欠けているから、自分を大切にする生き方へ戻れる。
この記事では、欠損とは何か、不完全さはなぜ人を弱くするだけではなく、深く強くすることがあるのかを、中途重度障害者としての実感から考えていきます。
もし今、あなたが
「自分は足りない」
「前のように生きられない」
「できない自分には価値がない」
「このままの人生でいいのか」
と感じているなら、どうか最後まで読んでみてください。
あなたの欠け目は、ただの傷ではないかもしれません。
それは、人生をもう一度、世界とつなぎ直すための入口かもしれないのです。
この記事で伝えたいこと
この記事で伝えたいのは、障害や欠損を美化することではありません。
障害は大変です。
不自由は不自由です。
できないことが増える苦しさは、確かにあります。
失ったものを「よかったこと」に無理やり変える必要もありません。
けれど同時に、私はこうも思います。
欠損があることと、不幸であることは同じではない。
不完全であることと、価値がないことは同じではない。
できないことがあることと、人生が終わったことは同じではない。
大切なのは、欠けた自分をどう扱うかです。
欠けた部分を、ただの失敗として責め続けるのか。
それとも、そこから新しい生き方を設計し直すのか。
この記事は、後者を選ぶための文章です。
1. 欠損とは何か|「ないもの」ではなく、人生の前提が変わること
欠損という言葉には、どこか冷たい響きがあります。
何かが失われた。
何かが足りない。
本来あるべきものがない。
普通から外れている。
以前の状態より劣っている。
そういう印象を持つ人も多いと思います。
私自身、中途重度障害者になった当初は、自分の身体をそう見ていました。
以前のように動かない。
以前のように歩けない。
以前のように疲れが抜けない。
以前のように働けない。
以前のように生活できない。
それは、確かに喪失でした。
だから、欠損を簡単に「個性」と言い換えることには慎重でいたいと思っています。
失ったものはあります。
できなくなったこともあります。
痛みもあります。
悔しさもあります。
屈辱のように感じた瞬間もあります。
けれど、時間をかけて分かってきたことがあります。
欠損とは、単に「ないもの」ではありません。
欠損とは、人生の前提が変わることです。
身体の前提が変わる。
働き方の前提が変わる。
人間関係の前提が変わる。
生活のリズムが変わる。
自分にできることと、できないことの境界が変わる。
つまり、欠損とは「終わり」ではなく、再設計を迫る出来事なのです。
もちろん、その再設計は楽ではありません。
望んで始まるものでもありません。
けれど、前提が変わったなら、生き方も変える必要があります。
昔の自分と同じルールで、今の自分を裁き続けると、人は必ず苦しくなります。
2. 人を苦しめるのは、欠損そのものより「欠損を否定し続ける生き方」
中途障害になってから、私は一つのことを強く感じました。
人を本当に苦しめるのは、欠損そのものだけではありません。
もちろん、障害そのものの苦しさはあります。
身体が動かない不自由。
疲労の重さ。
生活の制限。
仕事上の制約。
周囲の理解不足。
それらは現実です。
けれど、もう一つ深い苦しみがあります。
それは、欠損を否定し続ける苦しみです。
こんな自分ではダメだ。
前のようにできない自分には価値がない。
人に頼る自分が情けない。
疲れやすい自分が許せない。
できないことがある自分は迷惑だ。
早く元に戻らなければならない。
このように、自分の変化を否定し続けると、心はどんどん追い詰められていきます。
欠損は現実の制約です。
しかし、欠損を責め続ける心は、さらに大きな檻になります。
身体に制約があるだけでも大変なのに、心まで自分を責め続けると、逃げ場がなくなるのです。
私はここに、人生再設計の出発点があると思っています。
まず必要なのは、今の自分を正確に見ることです。
できること。
できないこと。
無理をすればできること。
無理をすると壊れること。
助けがあればできること。
環境を整えれば続けられること。
それを、感情ではなく事実として見直していく。
自分を責めるためではありません。
今の自分で生きるためです。
3. 完璧を目指すほど、人は孤独になる
多くの人は、「欠けているなら埋めなければならない」と考えます。
弱みは克服すべきだ。
足りない部分は補うべきだ。
できないことはできるようになるべきだ。
迷惑をかけないように、一人で何とかすべきだ。
もちろん、努力や改善は大切です。
できる工夫をすることも必要です。
学び続けることも意味があります。
けれど、問題は完璧さへの執着です。
完璧を目指しすぎると、人は次第に自分を閉じ始めます。
弱音を吐かない。
迷いを見せない。
痛みを隠す。
困っていることを言わない。
助けを求めない。
できないことをなかったことにする。
本当は限界なのに、平気なふりをする。
一見すると、それは強く見えるかもしれません。
でも、実際には、それは強さではなく密閉です。
弱さを見せない人には、助けが入りにくい。
困っていることが伝わらない人には、支援の手も届きにくい。
完璧に見せようとする人ほど、周囲はどこに触れてよいか分からなくなる。
その結果、人は静かに孤立していきます。
私も以前は、できるだけ自分だけで完結させようとしていました。
人に迷惑をかけたくない。
弱いと思われたくない。
できない人間だと思われたくない。
障害者だから仕方ないと思われたくない。
そう思うほど、余計に苦しくなりました。
なぜなら、障害後の身体では、一人で完結しているふりそのものが難しくなったからです。
環境調整が必要になる。
人との連携が必要になる。
休む設計が必要になる。
業務の標準化が必要になる。
無理をしない働き方が必要になる。
つまり、欠損は私に「一人で完璧にやる」という幻想を手放させたのです。
最初は屈辱のようにも感じました。
でも今は、それはむしろ人間として自然な形に戻ることだったのだと思っています。
4. 欠損は「穴」ではなく「余白」である
欠損という言葉を「穴」として見ると、人はそれを埋めようとします。
足りない。
不足している。
早く補わなければならない。
普通に戻さなければならない。
完全な形に近づけなければならない。
その見方は、ときに人を苦しめます。
なぜなら、埋まらない欠損もあるからです。
完全には戻らない身体がある。
元通りにはならない関係がある。
取り戻せない時間がある。
消えない傷がある。
前と同じようには働けない現実がある。
それを無理に埋めようとすると、人はずっと「足りない自分」として生きることになります。
けれど、欠損を「余白」として見ると、少しだけ景色が変わります。
余白とは、ただの空白ではありません。
何かが入ってくる場所です。
工夫が入る。
配慮が入る。
他者との接続が入る。
新しい働き方が入る。
自分を観察する視点が入る。
無理をしない設計が入る。
生き方を問い直す時間が入る。
私にとって、障害によって生まれた余白は、決して望んだものではありませんでした。
しかし、その余白があったからこそ、私は自分の生き方を見直すことになりました。
以前の私は、どこかで「頑張れば何とかなる」と思っていました。
でも障害後は、その考え方だけでは通用しません。
気合いでは超えられない疲労がある。
根性では埋められない制限がある。
善意だけでは解決しない構造がある。
努力だけでは続かない働き方がある。
だからこそ、欠けた前提で設計する必要が生まれました。
私はここに、欠損の中にある知性を見るのです。
欠損を否定するのではなく、欠損を前提に設計する。
これは、障害者だけの話ではありません。
人生に傷がある人。
生きづらさを抱える人。
心が疲れやすい人。
働き方に限界を感じている人。
過去の失敗を抱えている人。
すべての人に通じる考え方だと思います。
5. 本当の自立とは、一人で完結することではない
障害や生きづらさについて考えるとき、多くの人がぶつかるのが「自立」という言葉です。
人に頼らず生きたい。
迷惑をかけたくない。
自分のことは自分でできるようになりたい。
できるだけ一人で完結したい。
その気持ちは、私にもよく分かります。
けれど私は、中途重度障害者として生きる中で、自立という言葉の意味を考え直すようになりました。
本当の自立とは、何でも一人でやることではありません。
本当の自立とは、依存先を選べることです。
もっと言えば、接続の回路を自分の意思で設計できることです。
人間は、そもそも依存の中で生きています。
空気に依存している。
食べ物に依存している。
水に依存している。
電気に依存している。
交通に依存している。
医療に依存している。
社会制度に依存している。
誰かの労働に依存している。
完全に自力だけで生きている人など、一人もいません。
では、何が問題なのでしょうか。
依存そのものではありません。
問題なのは、質の悪い依存です。
相手を支配する依存。
自分を過剰に下げる依存。
「助けてやっている」と上下を作る依存。
「自分なんか迷惑だ」と自己否定の上に成り立つ依存。
頼る側と頼られる側が固定され、関係が歪む依存。
こうした依存は、人を傷つけます。
一方で、質の高い接続は違います。
尊厳を保ったまま助け合える。
できることとできないことを事実として共有できる。
必要な配慮を過不足なく受け取れる。
与える側と受け取る側が固定されず、関係が循環する。
お互いの限界を前提に、関係を設計できる。
私は、中途重度障害者として生きる中で、この「接続の質」を強く意識するようになりました。
自立とは、孤立ではありません。
むしろ孤立は、最も危うい状態です。
折れたときに、誰も入れないからです。
6. 不自由は世界を狭める。しかし、世界を濃くもする
障害は、きれいごとではありません。
不自由は、現実に不自由です。
できないことは増えます。
時間はかかります。
疲労は重くなります。
移動は大変になります。
生活のあらゆる場面に、見えないコストが乗ります。
だから私は、障害によって得たものだけを強調したいわけではありません。
失ったものはあります。
悔しさもあります。
不便さもあります。
理不尽さもあります。
それでも私は、障害後に得た感覚もあると思っています。
それは、世界の濃さを知る感覚です。
身体が不自由になると、世界の細部が急に重要になります。
床の傾き。
段差の高さ。
通路の幅。
椅子の位置。
手すりの有無。
人の歩く速度。
照明の強さ。
空間の圧。
周囲の気配。
健常だった頃には、何気なく通り過ぎていた情報が、今は前に出てきます。
それは、生存条件に関わるからです。
つまり不自由は、世界への感度を強制的に引き上げるのです。
さらに、人の優しさや雑さも見えやすくなります。
本当に歩幅を合わせてくれる人。
善意のつもりで支配してくる人。
言葉は丁寧でも、視線が雑な人。
不器用でも、誠実に接してくれる人。
何も言わず、自然に距離や速度を合わせてくれる人。
こうした違いが、以前よりも鮮明に見えるようになりました。
これは不幸の美化ではありません。
そうではなく、欠損は感受性の構造を変えるということです。
失うものはある。
苦しさもある。
しかし同時に、欠損を通じてしか見えない景色もある。
そこにしか育たない知性もある。
そこにしか生まれない優しさもある。
このことは、障害の有無を問わず、多くの人に通じるのではないかと思っています。
7. コンプレックスは、隠すものではなく人生の接続点になりうる
この話は、障害者だけの話ではありません。
誰にでも、自分の中の欠けがあります。
容姿への劣等感。
能力への不安。
学歴コンプレックス。
年齢への焦り。
家庭環境への傷。
過去の失敗。
人に言えない弱さ。
ずっと抱えてきた恥。
誰にも見せたくない不完全さ。
多くの人は、それを隠します。
埋めようとします。
なかったことにしようとします。
人に見せないようにします。
そこだけは触れられたくないと、心を閉じます。
もちろん、無理にすべてをさらけ出す必要はありません。
傷を見せる相手は選ぶべきです。
弱さを見せる場所も選ぶべきです。
誰にでも開示すればいいわけではありません。
けれど、自分自身までその欠けを否定し続けると、苦しくなります。
私は今、こう思っています。
コンプレックスは、人生の汚点ではなく、接続点になりうる。
傷があるから、人の痛みに鈍感でいられなくなる。
失敗したから、雑に「頑張れ」と言えなくなる。
不自由があるから、環境の大切さが分かる。
遠回りしたから、急げない人の気持ちが分かる。
恥を知っているから、人の恥を笑わずに済む。
これは、欠損がそのまま価値だと言いたいのではありません。
欠損はしんどい。
痛い。
苦しい。
できれば持ちたくなかったものもある。
それでもなお、その欠損をどう扱うかで、人生は変わります。
埋める対象としてだけ扱うのか。
接続点として扱うのか。
ここで、人生の方向が大きく変わるのです。
8. 欠けた自分を受け入れるとは、諦めることではない
欠けた自分を受け入れるというと、諦めのように聞こえるかもしれません。
もう仕方ない。
どうせできない。
変われない。
努力しても無駄。
だからそのままでいい。
そういう意味ではありません。
受け入れるとは、現実を正確に見ることです。
できないことを、できないと認める。
でも、そこで人生を終わらせない。
疲れやすいことを認める。
だから、疲れにくい設計を考える。
以前のように働けないことを認める。
だから、今の身体で働き続ける方法を考える。
一人では難しいことを認める。
だから、接続先を設計する。
これは諦めではありません。
むしろ、現実に根ざした前向きさです。
無理に「できる」と言い張ることだけが前向きではありません。
「できない」を前提に、どう生きるかを考えることも、立派な前向きさです。
私はこの考え方を、障害者としての生き方だけでなく、仕事やブログ運営や人生全体にも活かしています。
制約があるなら、制約を前提に設計する。
欠けがあるなら、欠けを前提に構造を作る。
弱さがあるなら、弱さを守れる仕組みを作る。
それが、自分を大切にする生き方につながっていくのだと思います。
9. 自分を大切にする生き方とは、不完全な自分を見捨てないこと
このブログでは、何度も「自分を大切にする生き方」について書いてきました。
自分を大切にするという言葉は、やや柔らかく聞こえるかもしれません。
けれど私にとって、それはもっと切実な言葉です。
自分を大切にするとは、都合のいい自分だけを愛することではありません。
うまくいっている自分。
元気な自分。
働ける自分。
人に優しくできる自分。
成果を出せる自分。
誰かの役に立てる自分。
そういう自分だけを認めることではありません。
動けない自分。
疲れやすい自分。
失敗する自分。
人に頼らなければならない自分。
前のようにできない自分。
不完全な自分。
その自分を、見捨てないことです。
欠損を持った自分を見捨てない。
不完全な自分を責め続けない。
できない自分にも、生きる場所を作る。
弱さを抱えたまま、人生をもう一度設計する。
それが、私にとっての自分を大切にする生き方です。
人は、完璧だから価値があるのではありません。
欠けていても、傷ついていても、失っていても、まだ生き方を作り直せる。
その事実を、自分に許すことが大切なのだと思います。
10. 障害者として生きることは、社会の設計を見ることでもある
中途重度障害者になってから、私は社会の見え方も変わりました。
以前は、自分の努力や能力の問題だと思っていたことが、実は環境や設計の問題だったと気づく場面が増えました。
段差があるから移動しにくい。
情報が整理されていないから働きにくい。
業務が属人化しているから引き継げない。
配慮が言語化されていないから、お互いに苦しくなる。
「普通にやって」と言われても、その普通の前提が人によって違う。
障害者として生きると、自分の問題と環境の問題を分けて考える必要が出てきます。
これは非常に大切な視点です。
できないことがあると、人はすぐに自分を責めます。
でも本当にそれは、自分だけの問題なのでしょうか。
環境が合っていないのかもしれない。
設計が曖昧なのかもしれない。
業務の切り分けが足りないのかもしれない。
コミュニケーションの前提がずれているのかもしれない。
合理的配慮が仕組みになっていないのかもしれない。
こう考えると、欠損はただの個人の問題ではなくなります。
社会の設計を見る視点になります。
私はここに、障害者として生きる意味の一つがあると思っています。
障害者は、社会の不備を映す鏡でもある。
そして同時に、社会をよりよく設計し直すためのヒントを持っている存在でもある。
だから、欠損は恥ではありません。
それは社会の設計を問い直す入口にもなり得るのです。
11. 欠損を抱えたまま働くことは、人生を諦めない実践である
障害を負ったあと、働くことの意味も変わりました。
以前のように、ただ長時間動ければよいわけではありません。
以前のように、何でも引き受ければよいわけでもありません。
以前のように、気合いで乗り切ればよいわけでもありません。
欠損を抱えたまま働くには、設計が必要です。
できることを明確にする。
できないことも正直に把握する。
無理をすると壊れるラインを知る。
必要な配慮を言語化する。
業務を標準化する。
役割を明確にする。
自分が価値を出せる場所を探す。
これは、楽な道ではありません。
けれど私は、欠損を抱えたまま働くことには大きな意味があると思っています。
それは、完璧でなくても社会とつながり続ける実践だからです。
以前のように働けなくても、働き方を変えることはできる。
できないことがあっても、役割を作ることはできる。
制約があっても、必要とされる場所を設計することはできる。
これは、障害者雇用の話であると同時に、人生再設計の話でもあります。
人生は、完璧な状態でしか動かせないものではありません。
欠けた状態でも、設計すれば動かせる。
私は、自分の身体を通して、そのことを学び続けています。
12. 欠損は人を弱くするだけではなく、言葉を深くする
私はブログを書いています。
そして、自分が中途重度障害者になったことは、私の言葉にも大きな影響を与えました。
もし何も失わず、何も壊れず、何も苦しまなかったなら、今のような言葉は書けなかったと思います。
もちろん、苦しみが必要だったと言いたいわけではありません。
苦しまないで済むなら、その方がいい。
障害を負わずに済むなら、その方がいい。
失わずに済むなら、その方がいい。
それは当然です。
けれど、起きてしまったことを、ただの不幸で終わらせるかどうかは別の問題です。
欠損は、人の言葉を深くすることがあります。
痛みを知った人の言葉には、軽々しく踏み込まない慎重さが生まれます。
失った人の言葉には、失う前には分からなかった重さが宿ります。
できないことを知った人の言葉には、できない人を責めない柔らかさが生まれます。
私は、自分の欠損を誇りたいわけではありません。
けれど、その欠損を通してしか書けない言葉があることは、今は確かに感じています。
だから私は、欠損をただ隠すのではなく、言葉に変えていきたい。
それは、自分のためでもあり、同じように「欠けている自分」を責めている誰かのためでもあります。
13. 欠損は、あなたの敗北ではない
中途重度障害者として生きてきて、私はようやく分かりました。
人は、完璧だから愛されるのではありません。
完璧だから強いのでもありません。
完璧だから生きやすいのでもありません。
完璧だから価値があるのでもありません。
むしろ、完璧を目指しすぎると、人は閉じます。
閉じると、助けも入ってこない。
言葉も入ってこない。
優しさも入ってこない。
新しい設計も入ってこない。
一方で、自分の欠けを事実として受け止められるようになると、そこに余白が生まれます。
余白があると、世界が入ってきます。
人が入ってきます。
回復が入ってきます。
学びが入ってきます。
自分自身も、そこに戻ってこられます。
だから私は言いたいのです。
あなたの欠損は、あなたの敗北ではありません。
あなたの弱さは、恥ではありません。
あなたの不完全さは、人生の終わりではありません。
それは、世界とつながり直すための入口です。
完璧にならなくていい。
全部埋めなくていい。
欠けたままでいい。
むしろ、その欠け目があるからこそ、光が差し込むことがあります。
不完全だからこそ、世界を抱ける。
不完全だからこそ、世界に抱かれる。
もし今、自分の欠点ばかりを見て苦しくなっているなら、どうか思い出してください。
そこは、ただの傷口ではないかもしれません。
そこは、あなたの人生がもう一度動き出すための、静かな入口かもしれないのです。
まとめ|欠損は不幸ではなく、人生再設計の入口である
欠損は、確かに痛みを伴います。
失うものがあります。
できなくなることがあります。
悔しさがあります。
不自由があります。
人に説明しきれない苦しさがあります。
だから、欠損を簡単に美化する必要はありません。
でも、欠損があるからといって、人生が終わるわけではありません。
欠損は、不幸の証明ではありません。
不完全さは、敗北ではありません。
できないことがあるからといって、あなたの価値が下がるわけではありません。
欠損は、人生の前提が変わることです。
そして前提が変わったなら、生き方を再設計すればいい。
一人で完璧にやるのではなく、つながり方を設計する。
弱さを隠すのではなく、守れる形にする。
できない自分を責めるのではなく、できる形を探す。
欠けた自分を否定するのではなく、そこに余白を見つける。
それが、自分を大切にする生き方です。
あなたは、完璧でなくてもいい。
欠けたままでも、人生は終わりではありません。
むしろその欠け目から、もう一度世界とつながり直すことができるのです。
最後の問い
もし今、あなたが自分の欠けを責めているなら。
以前のようにできない自分を責めているなら。
人に頼る自分を情けなく感じているなら。
不完全な自分を許せずにいるなら。
どうか、今日だけは少し考えてみてください。
その欠けは、本当にあなたの敗北なのでしょうか。
それとも、人生をもう一度設計し直すための入口なのでしょうか。
あなたは今日、自分の欠けを責める代わりに、どんな形で自分を大切にできますか?
次に読んでほしい記事
この記事では、欠損は不幸ではなく、不完全さは人生を閉じるものではなく、世界とつながり直す入口になりうるということを書きました。
このテーマをさらに深めたい方は、次の記事へ進んでください。
このままの人生でいいのか
欠けている自分を責め続けると、ふと
「このままの人生でいいのか」
という問いが浮かぶことがあります。
その問いは、弱さではありません。
人生を諦めきれていない心の声です。
関連記事:このままの人生でいいのか|自分を大切にする生き方と人生再設計
人生のどん底から立ち直る方法
欠損や喪失によって人生のどん底にいるとき、無理に未来から逆算する必要はありません。
今日できる小さな一歩から、自分を見捨てない再起の方法を書いています。
関連記事:人生のどん底から立ち直る方法|逆算できない絶望の中で、自分を大切にして再起する
頑張れない日は休んでいい
欠けた自分を責め続ける人ほど、頑張れない日にも自分を追い詰めてしまいます。
休むこと、自分を責めないこと、自分を見捨てないことについて書いています。
関連記事:頑張れない日は休んでいい|人生のどん底から立ち直るために必要な自分を見捨てない生き方
中途障害はキャリアの終わりではない
障害や欠損によって働き方が変わっても、キャリアそのものが終わるわけではありません。
今の身体、今の条件で働き方を再設計する考え方はこちらで詳しく書いています。
関連記事:中途障害はキャリアの終わりではない|障害者雇用・転職・働き方の再設計
CTA
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
もしあなたが今、欠けている自分を責めているなら。
以前のようにできない自分に苦しんでいるなら。
人に頼る自分を情けないと思っているなら。
不完全なまま生きることに、不安や痛みを抱えているなら。
まず、これだけは伝えたいです。
欠損は、敗北ではありません。
不完全さは、あなたの価値を下げるものではありません。
できないことがあるからといって、あなたの人生が終わったわけではありません。
むしろ、その欠け目には、まだ言葉になっていない入口があります。
世界とつながり直すための入口。
生き方を再設計するための入口。
働き方を組み直すための入口。
そして、自分を大切にする生き方へ向かうための入口です。
人は、完璧になってから生き直すのではありません。
欠けたまま、傷ついたまま、疲れやすいまま、不完全なまま、
それでも今日の自分を見捨てないところから、人生は少しずつ動き出します。
このブログでは、中途重度障害者として生きる現実、障害者としての働き方、人生の立て直し方、自分を大切にする生き方について、体験と考察をもとに書いています。
もし今、あなたの中に
「このままの人生でいいのか」
という問いがあるなら、こちらの記事へ進んでください。
このままの人生でいいのか|自分を大切にする生き方と人生再設計
その問いは、弱さではありません。
まだ自分の人生を諦めきれていない心の声です。
人生のどん底から立ち直る方法を知りたい方は、こちらも読んでみてください。
人生のどん底から立ち直る方法|逆算できない絶望の中で、自分を大切にして再起する
未来から逆算できないほど苦しいときでも、今日できる小さな一歩から人生は動き出すことがあります。
また、頑張れない自分を責めてしまう方には、こちらの記事もおすすめです。
頑張れない日は休んでいい|人生のどん底から立ち直るために必要な自分を見捨てない生き方
休むことは、逃げではありません。
限界の日に自分を守ることも、自分を大切にする生き方です。
障害や病気によって働き方が変わり、これからのキャリアに不安がある方は、こちらへ進んでください。
中途障害はキャリアの終わりではない|障害者雇用・転職・働き方の再設計
欠損は、あなたを終わらせるものではありません。
そこから、もう一度人生を作り直すことはできます。
そこから、もう一度世界とつながることはできます。
そこから、もう一度「自分を大切にする生き方」へ戻ることはできます。
欠けているままでいい。
でも、そのままで終わらなくていい。
あなたは今日、自分の欠けを責める代わりに、どんな優しさを自分へ向けますか?

















コメントを残す