はじめに|医療があったから、私は「その後の人生」を生きることができた
脳卒中を経験すると、人生は一度、強制的に止まります。
昨日まで普通に動いていた体が、思うように動かない。
当たり前にできていたことが、急に当たり前ではなくなる。
歩くこと。
話すこと。
手を動かすこと。
仕事に行くこと。
一人で外に出ること。
家族に心配をかけずに暮らすこと。
未来を、これまでと同じように考えること。
それらが、ある日を境に大きく変わってしまう。
人生が壊れる音は、必ずしも大きく響くわけではありません。
むしろ、静かです。
病院のベッドの上で天井を見ている時間。
リハビリ室で、思ったように動かない体に向き合う時間。
家族の不安そうな顔を見る時間。
退院後の暮らしを考えたときに、胸の奥が冷たくなる時間。
その一つひとつの中で、人は少しずつ理解していきます。
「ああ、自分の人生は、前と同じには戻らないのかもしれない」
私は脳卒中サバイバーであり、中途重度障害者として生きています。
だから、医療というものを、単なる制度や病院経営の話として見ることができません。
医療は、私にとって「命を助けてもらった場所」であると同時に、
人生が壊れたあとに、もう一度生きるための土台 でした。
救急で命をつないでくれた人がいる。
治療をしてくれた人がいる。
病棟で見守ってくれた人がいる。
リハビリで、少しずつ体を動かす可能性を探してくれた人がいる。
不安を抱える家族に向き合ってくれた人がいる。
退院後の生活を考えてくれた人がいる。
再発しないように、今も医療とつながり続ける必要がある。
脳卒中は、命が助かれば終わりではありません。
そこから長い人生が続きます。
後遺症とともに生きる。
身体の変化と向き合う。
働き方を変える。
家族との関係を作り直す。
通院を続ける。
薬を続ける。
不安と折り合いをつける。
自分の人生をもう一度設計し直す。
そのすべての根底に、医療があります。
だから私は、地域医療の危機を他人事として見ることができません。
病院があること。
救急が動いていること。
医師がいること。
看護師がいること。
リハビリ職がいること。
薬剤師がいること。
介護職がいること。
医療事務や清掃、給食、送迎、地域交通に関わる人がいること。
それらは、当たり前ではありません。
誰かが今日も出勤しているから、私たちの暮らしは支えられています。
誰かが夜勤をしているから、夜中に倒れた人が助かる可能性があります。
誰かが疲れた体で現場に立っているから、地域の命は今日もつながっています。
でも、私たちはそのことを忘れがちです。
病院が開いていることを当たり前だと思ってしまう。
救急車が来ることを当たり前だと思ってしまう。
看護師が優しく対応してくれることを当たり前だと思ってしまう。
介護職が高齢者の生活を支えてくれることを当たり前だと思ってしまう。
けれど、その「当たり前」は、誰かの労働でできています。
誰かの責任感でできています。
誰かの疲労の上に成り立っていることもあります。
だからこそ、私は言いたいのです。
医療関係者への感謝は、きれいごとではありません。
脳卒中サバイバーとして、中途重度障害者として、今も地域で暮らしている一人の人間として、心の底から感じている実感です。
同時に、感謝だけで終わらせてはいけないとも思っています。
感謝するなら、医療者が壊れない地域を作らなければならない。
感謝するなら、介護職が燃え尽きない社会を考えなければならない。
感謝するなら、地方でも医療にたどり着ける仕組みを守らなければならない。
この記事では、脳卒中サバイバーであり中途重度障害者である私の視点から、地方医療の大切さ、医療関係者への感謝、そして但馬を含む地域医療の危機について考えていきます。
脳卒中サバイバーにとって、医療は「命を救う場所」だけではない
脳卒中と聞くと、多くの人は救急搬送や急性期治療を思い浮かべるかもしれません。
もちろん、急性期医療は極めて重要です。
倒れたとき、どれだけ早く医療につながれるか。
専門的な判断が受けられるか。
適切な治療に間に合うか。
救急搬送先があるか。
これは命に直結します。
しかし、脳卒中サバイバーにとって、医療の大切さはそこだけではありません。
命が助かったあとも、医療は続きます。
再発予防。
服薬管理。
血圧管理。
定期受診。
リハビリ。
身体機能の維持。
生活上の相談。
福祉や介護との接続。
働き方の見直し。
家族支援。
脳卒中は、発症したその日だけの病気ではありません。
その後の人生全体に関わる出来事です。
だからこそ、地域に医療があることは、脳卒中サバイバーにとって非常に大きな意味を持ちます。
通える病院がある。
相談できる医師がいる。
状態を見てくれる専門職がいる。
必要なときに医療へ戻れる。
生活の中で不安を抱えたとき、完全に孤立しなくて済む。
それは、単なる安心ではありません。
生き続けるための条件です。
中途重度障害者にとって、通院できることは当たり前ではない
障害を持って生きるようになると、「病院に行く」という行為の重さが変わります。
健康だった頃は、病院に行くことを少し面倒な予定くらいに感じていたかもしれません。
しかし、障害があると、通院そのものが大きな負担になります。
移動手段を考えなければならない。
天候に左右される。
体調の波がある。
付き添いが必要になることもある。
待ち時間だけで疲れ切ることもある。
冬場や悪天候の日は、外出そのものが危険になる。
病院が遠くなれば、通院のハードルは一気に上がる。
つまり、障害者にとって医療アクセスとは、病院が存在するかどうかだけではありません。
実際に通えるかどうか
が重要です。
病院があっても、遠すぎれば通えない。
診療科があっても、予約が取れなければ続かない。
医師がいても、交通手段がなければたどり着けない。
制度があっても、家族の支えがなければ利用できない。
この現実は、地方で暮らす障害者にとって非常に切実です。
地域医療が弱ると、最初に困るのは、体力や移動手段に余裕がある人ではありません。
高齢者。
障害者。
慢性疾患のある人。
独居の人。
家族の支援が限られている人。
経済的に余裕のない人。
弱い立場の人から、先に医療に届きにくくなります。
だから、地方医療の危機は、単なる病院の問題ではありません。
地域で弱い立場の人が生き続けられるかどうかの問題なのです。
医療関係者への感謝は、言葉だけで終わらせてはいけない
私は、医療関係者への感謝を忘れることができません。
救急の現場で命をつないでくれる人。
病棟で夜通し患者を見守る人。
リハビリで何度も体の可能性を探してくれる人。
薬の管理を支えてくれる人。
家族の不安を受け止めてくれる人。
退院後の生活を考えてくれる人。
介護につなげてくれる人。
受付や事務として、医療の入口を支えてくれる人。
清掃や給食、設備管理として、病院の安全を支える人。
医療は、医師だけで動いているわけではありません。
看護師だけでもありません。
リハビリ職だけでもありません。
薬剤師だけでもありません。
介護職だけでもありません。
多くの人の連携によって、医療は成り立っています。
病院という建物が人を救うのではありません。
その中で働く人が、人を救っています。
だからこそ、感謝は大切です。
しかし、ここで間違えてはいけないことがあります。
感謝を、現場の我慢を正当化する言葉にしてはいけないということです。
「医療者は尊い仕事だから」
「介護職は人のためになる仕事だから」
「看護師は使命感があるから」
「地域のために頑張ってほしい」
そう言いながら、過重労働や人手不足を放置してはいけません。
感謝とは、「ありがとう」と言うことだけではありません。
本当に感謝するなら、医療関係者が壊れずに働ける仕組みを作らなければならない。
休めること。
生活できる賃金があること。
人員が足りていること。
理不尽なクレームから守られること。
夜勤や当直の負担が限界を超えないこと。
子育てや介護と両立できること。
若い人が学びながら働き続けられること。
燃え尽きる前に支えられること。
それが、医療関係者への本当の感謝です。
地方医療の危機は、脳卒中サバイバーにとって命の距離を遠ざける
脳卒中は、時間との勝負です。
もちろん、すべての状態が同じではありません。
けれど、早く医療につながれるかどうかが重要であることは、多くの人が直感的に分かるはずです。
地方医療が弱ると、この「医療までの距離」が遠くなります。
救急搬送に時間がかかる。
受け入れ先が限られる。
専門的な対応が遠方になる。
家族が付き添う負担が増える。
退院後のリハビリや通院が続きにくくなる。
再発予防のための継続医療が弱くなる。
これは、脳卒中サバイバーにとって極めて重い問題です。
命が助かるかどうか。
後遺症がどう残るか。
退院後に地域で暮らせるか。
働き方を再設計できるか。
家族と生活を続けられるか。
すべてが医療アクセスとつながっています。
地域医療が弱ることは、脳卒中サバイバーにとって、単なる不便ではありません。
命と生活の選択肢が狭くなることです。
だから私は、但馬の医療危機を「病院経営が大変らしい」という遠い話として見ることができません。
それは、私自身の暮らしの問題であり、同じように障害や病気を抱えて生きる人たちの未来の問題です。
「病院がある」だけでは、地域で生き続ける安心にはならない
地方で暮らしていると、病院があるだけで安心してしまうことがあります。
地域に病院がある。
救急車も走っている。
外来も開いている。
診療も続いている。
だから大丈夫だと思ってしまう。
けれど、本当にそうでしょうか。
病院があっても、診療科が減れば受けられる医療は狭くなります。
病院があっても、医師や看護師が足りなければ救急は弱くなります。
病院があっても、通院手段がなければ高齢者や障害者は通えません。
病院があっても、退院後の支援がなければ地域で暮らし続けられません。
病院が存在することと、医療が届くことは違います。
地方医療で本当に大切なのは、建物の有無ではありません。
必要な人が、必要なときに、必要な医療へたどり着けること。
そして、そのあとも生活へ戻れることです。
地域医療とは、病院の中だけで完結するものではありません。
診療所。
訪問看護。
介護事業所。
薬局。
福祉制度。
行政。
地域交通。
家族支援。
職場の理解。
それらがつながって初めて、地域で生きる条件になります。
中途障害者として感じる「医療がある地域」の価値
障害を持ってから、私は「地域で暮らせる」という言葉の重さを強く感じるようになりました。
健康なときは、住む場所を選ぶ基準が違ったかもしれません。
仕事があるか。
家賃が安いか。
自然があるか。
買い物がしやすいか。
家族が近いか。
もちろん、それらも大切です。
しかし、障害や病気を抱えるようになると、そこにもう一つ、大きな条件が加わります。
医療に届くかどうかです。
必要なときに受診できるか。
再発予防を続けられるか。
救急時に間に合うか。
リハビリや相談につながれるか。
家族だけに負担をかけずに暮らせるか。
老いても、障害があっても、その地域に残れるか。
これらは、単なる医療の問題ではありません。
人生設計の問題です。
地方に住み続けるということは、風景や郷土愛だけでは決められません。
医療。
介護。
交通。
仕事。
家族。
福祉。
地域の支え。
そのすべてがなければ、人は安心して住み続けることができません。
だからこそ、地域医療の危機は、地方の未来そのものを左右します。
但馬の医療危機は、障害者と高齢者に先に届く
地域医療が弱ったとき、その影響は全員に同じように届くわけではありません。
まず先に苦しくなる人たちがいます。
車を運転できない高齢者。
一人で通院できない障害者。
家族の付き添いが必要な人。
慢性疾患で定期的な通院が必要な人。
在宅医療や訪問看護に支えられている人。
介護と医療の両方が必要な家庭。
仕事を休まなければ家族を病院に連れていけない人。
医療が遠くなると、こうした人たちの生活が先に苦しくなります。
「少し遠い病院に行けばいい」
「家族が連れていけばいい」
「予約して通えばいい」
そう簡単にはいきません。
移動だけで疲れ切る人がいます。
付き添う家族が仕事を失う可能性もあります。
冬の但馬では、通院そのものが大きな負担になる日もあります。
何度も遠方へ通うことが、生活を壊すこともあります。
だから、地域医療の縮小は、弱い立場の人にとって、静かな生活の崩壊です。
病院が完全になくなる前に、暮らしは崩れ始めます。
医療者もまた、守られるべき地域の一員である
医療関係者は、支える側として見られがちです。
しかし、医療者も一人の人間です。
地域で暮らす生活者です。
家庭があります。
疲れます。
悩みます。
限界があります。
心も体も消耗します。
医療者を「使命感のある人たち」として扱いすぎると、その人たちの苦しさが見えなくなります。
看護師が辞める。
介護職が燃え尽きる。
若い医師が地域に残らない。
現場の人が疲れ切る。
それは、個人の根性不足ではありません。
仕組みが持続可能ではないというサインです。
地域医療を守るということは、患者を守ることだけではありません。
医療者を守ることでもあります。
医療者が壊れれば、患者も守れません。
介護職が壊れれば、高齢者の生活も守れません。
救急隊員が疲弊すれば、地域の命の入口も弱ります。
だから、医療関係者への感謝は、現場を守る設計に変えなければいけません。
感謝を言葉で終わらせず、制度、待遇、働き方、地域全体の理解へつなげること。
それが、これからの地方には必要です。
地域医療を守ることは、未来の自分を守ることでもある
若いとき、元気なとき、人は医療の重要性をあまり意識しません。
病院は、何かあったときに行く場所。
自分にはまだ関係が薄い場所。
高齢者や病気の人のための場所。
そう感じることもあるかもしれません。
しかし、人は誰でも老いていきます。
誰でも病気になる可能性があります。
誰でも事故に遭う可能性があります。
誰でも突然、障害を持つ可能性があります。
私自身も、最初から中途重度障害者だったわけではありません。
ある日、人生の前提が変わりました。
だから思います。
地域医療を守ることは、今困っている人だけを守ることではありません。
未来の自分を守ることです。
未来の家族を守ることです。
未来の子どもたちを守ることです。
未来の但馬を守ることです。
医療がある地域は、安心して老いることができます。
医療が届く地域は、障害があっても暮らし続ける可能性があります。
医療者が残れる地域は、若い世代も暮らしを描きやすくなります。
地域医療は、地域の未来への投資です。
但馬の医療を考えることは、人生再設計を考えることでもある
このブログでは、人生再設計という言葉を大切にしています。
人生再設計とは、人生を一度壊して作り直すことではありません。
現実を見つめたうえで、自分を壊さずに生きられる形へ整え直すことです。
但馬の医療危機も同じです。
見たくない現実を見ないまま、何とかなると願うだけでは守れません。
人口は減る。
高齢者は増える。
医療人材は限られる。
自治体財政も無限ではない。
現場の使命感にも限界がある。
それでも、この地域で人が生き続けるためには、どう設計するのか。
救急をどう守るのか。
高齢者の通院をどう支えるのか。
障害者の医療アクセスをどう確保するのか。
医療者が残れる職場をどう作るのか。
介護と医療をどうつなぐのか。
家族だけに負担を押しつけない仕組みをどう作るのか。
これは、地域の人生再設計です。
そして、それは私たち一人ひとりの人生再設計にもつながっています。
まとめ|医療関係者への感謝とともに、地域医療を自分ごととして考えたい
脳卒中サバイバーとして。
中途重度障害者として。
但馬で暮らす一人の生活者として。
私は、地域医療のありがたさを深く感じています。
医療があったから、命がつながった。
医療があったから、人生をもう一度考える時間を得られた。
リハビリや支援があったから、できることを探し直せた。
医療関係者がいたから、今の生活につながっている。
だからこそ、地域医療の危機を見過ごしたくありません。
医療関係者に感謝しています。
介護職にも感謝しています。
救急やリハビリ、薬局、医療事務、清掃、給食、送迎、地域交通に関わる人たちにも感謝しています。
けれど、感謝だけでは守れないことも分かっています。
本当に大切なのは、感謝を行動と設計に変えることです。
病院があることを当たり前と思わない。
医療者が働いてくれることを当たり前と思わない。
介護職が支えてくれることを当たり前と思わない。
救急が来てくれることを当たり前と思わない。
そのうえで、地域で生き続けるために何が必要なのかを考える。
但馬の医療危機は、誰かの問題ではありません。
高齢者の問題でも、障害者の問題でも、病院だけの問題でもありません。
この地域で暮らす私たち全員の問題です。
医療が弱るとき、先に困るのは弱い立場の人です。
しかし、その先にあるのは、地域全体の衰弱です。
だからこそ、今、考えたい。
私たちは本当に、地域医療を当たり前だと思い続けていいのでしょうか。
そして、支えてくれている人たちに、感謝だけでなく、壊れずに働ける未来を返せているのでしょうか。
CTA|医療に支えられた人生を、地域の未来として考えるために
ここまで読んでくださった方の中には、もしかすると、ご自身やご家族の医療・介護について不安を感じている方もいるかもしれません。
親が倒れたら、どこの病院へ運ばれるのか。
自分が病気になったとき、通い続けられる医療機関はあるのか。
障害や後遺症を抱えたとき、この地域で暮らし続けられるのか。
介護が必要になったとき、家族だけで抱え込まずに済むのか。
医療や介護の現場で働く人たちは、これからも壊れずに支え続けられるのか。
それは、決して遠い未来の話ではありません。
脳卒中サバイバーとして、中途重度障害者として、私は医療が人生をつないでくれることを知っています。
そして同時に、医療が届かなくなる怖さも、強く感じています。
地域医療の危機は、病院だけの問題ではありません。
それは、私たちの暮らし方、働き方、老後、家族、障害、介護、人生設計にまでつながる問題です。
特に、脳卒中サバイバーや中途障害者、高齢者、慢性疾患のある人にとって、医療にたどり着けるかどうかは、生き続ける条件そのものです。
この問題をさらに深く考えたい方は、こちらの記事も読んでみてください。
関連記事:但馬の医療崩壊はもう始まっている|豊岡病院組合・八鹿病院の危機と地域が生き残る条件
また、医療や介護の現場がなぜ限界に近づいているのか、善意や使命感に頼りすぎる社会の危うさについては、こちらの記事でも詳しく書いています。
関連記事:医療・介護崩壊はなぜ起きるのか|使命感という名の「善意の搾取」で維持される日本の末路
さらに、看護師や介護職がなぜ燃え尽きてしまうのか、優しい人ほど壊れていく現場構造について考えたい方は、こちらの記事へ進んでください。
関連記事:看護師・介護職が燃え尽きる理由|「優しい人ほど壊れる」医療・介護現場の構造
そして、医療や障害、働き方、老後を含めて、自分の人生をもう一度見つめ直したい方には、こちらの記事も読んでいただきたいです。
関連記事:このままの人生でいいのか?
このブログでは、医療・介護、障害、働き方、地方での暮らし、人生再設計について、中途重度障害者としての実感も交えながら発信しています。
この記事が、地域医療を誰か任せにせず、自分の人生と地域の未来として考えるきっかけになればうれしいです。
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同じように医療や介護、障害、家族の将来に不安を感じている方へ届くことが、この記事の意味になります。
また、これからも障害、医療・介護、人生再設計、自分を大切にする生き方について考えたい方は、ブログのフォローやYouTubeチャンネル登録もしていただけるとうれしいです。
医療があること。
介護があること。
救急があること。
通院できること。
支えてくれる人がいること。
そのすべては、当たり前ではありません。
だからこそ、感謝とともに考えたいのです。
この地域で、誰もが生き続けられる医療を、私たちは本気で守ることができるのか。


















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