1.最近不思議に思っていることを書いてみる。
たぶん批判がたくさん来ると思うが、自分のメディアなんだから気にしないことにする。
私の人生は30歳までイージーモードでした。
所謂中流家庭に生まれて親・兄弟にも恵まれ自覚はなかったが今振り返ればいい家族でした。
公立の学校を普通に出てFランの四大へいって一部上場企業に入社。
1年半で辞めて中小企業の事務員になった。
給料に不満はなく、結婚、子供一人、マンション購入&マイカー所有と一昔前の普通の大人だった。
しかし、突然の脳出血!
体には障害が残り、今までの当たり前や自分が気づいてきたものは消え去った。
半年後に退院したが、残ったのは両親と妹と保険金のみ、家も車も処分し妻娘とは離縁。
たった一つ道を外れただけで、すべて失うものを後生大事に育み幸せを目指した結果何もかも失った。
そして幸せとは何かを考えた。
一瞬で消える幸せを目指している現代社会の生き方は運による要素が強いので、賭けに勝ち続けなければ幸せになれないハードモードだと確信した。
最初に言った30歳まではイージーモードだというのは、世間や大人から刷り込まれていた一般的な幸せを求めるためのレール上を歩いていただけにすぎず、実際は、成功も幸せも運任せのハードモードだったということに31歳で気づいた。
2.レールを外れたらイージーな世界が待っている
そして障碍者になることで、そんな一般・普通というレールから降ろされて、見た景色で、このレールを降りた人生こそイージーモードだと理解した。
再婚に移住、会社に頼らない収入の確保、徹頭徹尾自分の想いに応える人生。
私の人生の指標である「自分を大切にする」これこそが、運に頼らず幸せになる最高のキーワードだと確信している。
「人は自分の思った通りの人生なんか歩めない。」これが、世間の常識です。
しかし、私は15歳の時点で祖父から「人生は思ったようにしかならない」と言われていた。
半信半疑だったが、障碍者になった時に思い出し、レール外を思った通りに言葉にし、行動したことで、今は「思った通りの人生にしかなっていない。」
この話を、先日紹介した全盲のお坊さんに話したら、「脳出血も潜在意識でお前が望んだ結果じゃないのか?」って言われました。
この先は、かなりマニアックな宗教の話になるので、割愛します。
最終的に、「因果応報」という事になりました。
3.因果応報
ガッツリ仏教用語です。
私は、前世来世を信じていないので、今この瞬間の話として聞いてください。
「善いのも悪いのも、自分が受ける結果のすべては、自分が作る。」
簡単に言えばこういうことです。
現在では、悪い方の意味で使われることが多いですが、両面あります。
「因果」とは、「原因」と「結果」のことで、「どんな結果にも必ず原因があり、原因なしに起きる結果は一つもない」ということです。
「応報」とは、「原因」に応じた「報い(結果)」が現れるということで、原因に応じた結果しか現れないという事が、「因果応報」です。
ここで、過去と未来を切り離して「因果」とは何か?を考えると、非常に面白いです。
私は、全盲のお坊さんと、この話で3時間盛り上がっていました。
是非、興味がある方は考えてみて、自分なりの考えをコメント頂ければ幸いです。