他人と違うは武器になる

1.レアキャラ

私はいうなればレアキャラだ。

30年間の健常者としての価値観と、まだ数年だが障害者としての価値観が内包し複雑に絡み合っている。

今流行りのダイバーシティを一人で可能にしている。

決して多重人格ではないが、多様な考え方ができ、常識外のアイデアを生み出すツールになれる。

最大のメリットは人と違うので、変なことを言っても許される。

日本では、学校でも社会でも標準化が求められるのに、昨今急に個性やら、イノベーションやら大人や偉い人は無責任に押し付けてくる。

そんな中で、私は非常に生きやすい。

体は不自由になったが、心は非常に自由だ。

良く聞かれることは障害を受容するにはどうしたらいいか?ということだ。

これは障害のみならず、社会で閉塞感を感じている大人、不登校・引きこもりの子たちにも共通した解決アプローチだと思が、キーワードは「承認」、まずは「他己承認」親、配偶者、兄弟のような身近な人からの承認の言葉により、自分の居場所を見つけられ、承認欲求が満たされて行く、これが第一段階。

これが意外とできていない、日本では、学校に行けないことを良いか悪いかではなく、いけない事実は子供のせいと考える傾向が強い。

もしくは、行きたくない学校に原因があると考える親が多数である。

当の本人は最初は軽い気持ちで休んでも親からの圧力なんかで引きこもりに陥る例はカウンセラーとして話を聞き非常に多い印象を受ける。

もしかして、不登校の原因は子供でも学校でもなく、親かもしれません。

そんなことを言うと十中八九怒られます。

「私は、最初は焦る気持ちを抑えて優しく声掛けをしていました。」

「どれくらい声掛けしましたか?」

私の素朴な疑問にその親御さんは「一か月」と答えました。

これが長いと思うか短いと思うかは人によりますので正解はありません。

私の左手はまるで引きこもりの子供のようにピクリとも動かず、なんの声も聞かせてくれない状態でした。

その左手に呼びかけ続けた期間は半年間です。

ずっと承認してました。「なんで動かないんだ」じゃなく「大丈夫、お前は動くよ」って半年間承認し続け、ある日「グーならできるよ」って言ってくれ、その日から握ることができるようになりました。

変なこと言ってる自覚はあります。

他の記事でも書きましたが、その声を分かりやすく通訳してくれるのが理学療法士や作業療法士だと思ってます。

結局本来自分で気づけるものが自然から外れて分からなくなってるのが今の私たちではないでしょうか。

自然の摂理、原理原則に沿って生きることが、日本人が古来から大切にしてきたことであり、西洋化の陰で失くしてしまったものだと思います。

長々と書きましたが、もちろん私の体の話です。

しかし、自分の子供だって体の一部みたいなものだと思います。それを信じることはできるはずです。

私は自分の体を信じて呼びかけたのです。子供を信じて、「存在してくれてるだけで素晴らしい。」って思いを言葉にして伝えてあげることこそリハビリと共通している子育ての本質だと考えています。

私はこう思ってるからこうしてほしいと、子供に親の本音や思いを伝えてみてください。

それとも自分をさらけ出したら子供にどう思われるかって不安でしょうか。

親の声を聞けない子供も不安だと思いませんか。

なぜこんな話をしたかというと、障害で落ち込む私に、母やメンターのお爺さんが私に承認という宝物を与え続けてくれ、私自身が「自己承認」できたのが障害の受容の理由だと考えるからです。

子供から大人へのプロセスも障害の受容と同じではないでしょうか。

少なくとも私はそう思います。

自己承認とは、昨今子育て業界でよく聞く自己肯定感と同義です。

「貴方は特別な子で何よりも大切だと、勉強できなかろうが、運動音痴だろうが、学校に行けなかろうが、そこにいてくれるだけで私は幸せ」と言ってあげませんか。

少し話は変わりますが、障害からの学びの中でも最も大きかったのは「命の重さ」です。

一度肉体的に死にかけて、心は完全に死んだ私。

「周りからもう怖いものないでしょ」と言われるが、死ぬのが怖い。

元々生きることへの執着は極端に低いと自分で思っていました。

それが死にかけて障害者になった今、死ぬのが怖い。

なぜだろうと考えてみても簡単には答えは見つからなかった。

世の中には理由が存在しない事象も少なからず存在する。

その類だろうか、でももっと深く考えてみました。

すると、一般論的な答えが浮かぶ。単純な話です、「なぜ死にたくないのか、再婚した妻との人生最良の時間が愛おしいから。」

つまり、幸せな人間は死にたくないのです。

凄く普通の答えですよね。

これは正解だと思う。じゃあ、生に執着していなかった障害者になる前の自分は不幸だったのか?答えは否です。

十分幸せを感じていました。ここで矛盾が発生。

この答えは、メンターお爺さんが言った一言にヒントが隠れていました。

「人間の死亡率は100%、みんな知ってるが、みんな知らないふりをしている。」

この言葉には違和感があります。

恐らくみんな知ってるけど自覚がないが正解ではないでしょうか。

身近な人の死を経験した人ならわかる感覚でも、若く健康な人には言葉で言っても実感は湧かないと思います。

よく今日が人生最後の日だと思って生きなさいっていう名言もあるぐらいですから、昔から言われていることなんでしょう。

日本にもお茶の言葉で一期一会という言葉があるように、これが最後という思いは万国共通で言われてきたのだと思います。

私たちも学校や大人から、または歌や映画から情報は受け取っていても、身近にない死について、しかも自分の死については自覚するセンサーが育ってないから、私は幸せであっても死ぬのが怖くなかったのだと思います。

今は、一度精神的な死を経験して、本来の命の重みを自覚できていると思います。本当にいつ死んでもおかしくないと思って生きていれるのが、私の大きな財産です。

現実に、私は道を歩いていても、階段の昇降をしていても、健常者の皆さんの数十倍死ぬ確率は高いです。外では一瞬たりとも気を抜けません。

同じような思いをしている人も多いと思う。日々命と向き合っている障碍者の思考や発想は必ず社会に役に立つし、

これからの不確実性の時代に対してのある種の答えの選択肢となりえる。

障碍者になったことで不確実な未来を生きているからこそ、提案できることもあるだろう。

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