「自立して生きなさい」と言われると、胸のどこかが少し固くなる人は少なくないと思う。
その言葉は本来、励ましであるはずだ。けれど現実には、しばしば別の響きを帯びる。誰にも頼るな。迷惑をかけるな。弱音を吐くな。自分のことは自分でやれ。そういう無言の圧力をまとって、人を追い詰める言葉になる。
日本では昔から、「人に迷惑をかけないこと」が美徳として語られてきた。もちろん、それ自体が全面的に悪いとは思わない。互いに節度を持ち、身勝手になりすぎないことは、社会を成り立たせる大事な条件でもある。だが、その価値観が行き過ぎると、人は「助けを必要としている自分」を恥じるようになる。支えられて生きることを、どこか敗北のように感じてしまう。
私は、この感覚にずっと違和感があった。いや、正確に言えば、かつての自分もまた、その違和感を十分に言語化できないまま、社会が配る「自立」のイメージをどこかで受け入れていたのだと思う。自立とは、できるだけ一人で何でもできること。誰の手も煩わせず、自分の足で立ち、自分の力で生活を回すこと。そういう像を、無意識のうちに正しいものとして内面化していた。
しかし、中途で重い障害を負ってから、その前提は静かに、しかし根本から崩れた。
身体は、ある日を境に、それまで当たり前にできていたことを当たり前にはできなくなる。動く、持つ、歩く、急ぐ、耐える。そんな日常の基本動作の一つひとつが、「できること」ではなく「工夫しなければならないこと」へと変わる。以前なら考えもしなかった段差が壁になり、移動が計画になり、仕事が体力と集中力の配分の問題になる。何かをするたびに、自分の身体と現実の折り合いをつけなければならなくなる。
そのとき痛感したのは、「人は一人では生きられない」という、ごくありふれているはずの事実だった。
ありふれているのに、健常で、ある程度うまく社会に適応できていた頃には、私はその事実を本当の意味では知らなかったのだと思う。知識としては知っていた。人は支え合って生きる、と。だが、身体の実感としては知らなかった。自分の力で何とかしているつもりでいた。努力し、工夫し、責任を果たし、何とか社会に適応して生きている――そう思っていた。
けれど障害を負ってから見えたのは、健常だった頃の「自力」すら、実は無数の支えの上に成立していたということだった。家族、社会インフラ、制度、職場、医療、地域、目に見えない配慮、無数の他者の労働。人は最初から、完全な単独者として生きてなどいない。にもかかわらず、支援が可視化された瞬間だけを切り取って、それを「依存」と呼ぶ社会は、少し残酷だと思う。
中途重度障害者になると、この残酷さは妙に生々しく迫ってくる。助けを受けることそのものよりも、「助けを受けている人」として見られることの方が苦しい場面がある。介助や配慮や制度利用は、生きるために必要な手段であるはずなのに、そこにしばしば「一人前ではない」という視線が混じる。露骨でなくても伝わってくる。自分でできないことがある人。誰かに支えられている人。社会にコストをかけている人。そういう見え方が、この国にはまだ根深く残っている。
そして、この視線をさらに凶暴にするのが、「甘え」という言葉だ。
私はこの言葉が、日本社会であまりにも乱暴に使われすぎてきたと思っている。甘えという言葉は、一見すると道徳的な注意のようでいて、実際には非常に便利な黙らせの装置だ。苦しいと言う人に対して、甘えるな。助けを求める人に対して、依存するな。限界を訴える人に対して、みんな我慢している。そうやって、その人が置かれた具体的な状況も、身体も、環境も、背景も見ないまま、一言で切り捨てる。
だが、本当に危ういのは、支援を受けることではない。助けを必要としているのに、それを必要だと言えず、一人で抱え込み、心身を壊していくことの方だ。何もかも自分で抱え込み、潰れ、選ぶ力まで失っていく生き方の方が、よほど不自由で、不健全で、尊厳から遠い。
私は今、助けを受けることと、人生の主導権を失うことは、まったく別の話だと思っている。
ここは、とても大事なところだ。
介助を受けることと、他人に人生を決められることは違う。行政サービスを利用することと、自分の意志を手放すことは違う。親の支えを受けることと、精神的に未成熟であることは違う。配偶者に支えられていることと、主体性がないことは違う。職場で合理的配慮を受けることと、責任から免除されていることも違う。
支援とは、主体性の代用品ではない。むしろ主体性を生かすための土台になりうる。
たとえば、両側から支えられていたとしても、本人が両足で立ち、自分の意志で前を向こうとしているなら、それを「立っている」と呼んでいいのではないかと私は思う。支えが入っているから立っていない、とは言わないはずだ。杖をついて歩く人に向かって、歩いていないとは言わないだろう。ならば、なぜ人生においてだけ、支えを受けることを「自立していない」と言いたがるのか。
自立とは、誰の手も借りないことではない。自分の人生の舵を、自分で握ることだ。
助けを受けるかどうかを自分で選ぶこと。どの支援を受け、どこで踏ん張り、何を諦め、何を守るかを自分で決めること。できないことがあっても、自分の意志で生き方を選び、その結果を自分の人生として引き受けること。その意味で、自立とは「能力の総量」の話ではなく、「主体性の所在」の話なのだと思う。
この再定義は、障害者だけのためのものではない。
子育てを見ればすぐにわかる。本来、子どもを育てるという営みは、共同体の支えがあって当然のはずだ。にもかかわらず現代の日本では、親、とりわけ母親や共働き世帯に対して、「ちゃんと回して当然」という無言の圧が強すぎる。しんどいと言いづらい。預けづらい。頼りづらい。助けを求めることが、どこか能力不足の表明のように扱われる。こんな社会で、子どもを安心して育てられるはずがない。
介護もそうだ。病気もそうだ。メンタルの不調も、失業も、貧困も、老いもそうだ。人は人生のどこかで必ず、自分一人の力では越えられない局面に出会う。にもかかわらず、「一人前なら自分でやるべきだ」という硬直した自立観が残り続ける限り、助けを必要とする人ほど声を上げられなくなる。結果として、孤立が深まり、問題が悪化し、最後には個人も社会も大きな代償を払う。
本当に成熟した社会とは、強い人間だけが美しく見える社会ではない。必要なときに「助けて」と言える社会であり、その声を能力不足ではなく現実認識の力として受け止められる社会だと私は思う。助けを求める力は、弱さではない。自分の限界を正確に把握し、壊れる前に支援へ接続するための力だ。それは、見栄や同調圧力に飲まれず、自分の人生を守るための、きわめて実践的な知性である。
もちろん、これは私の個人的な見解だ。もっと厳しい考え方をする人もいるだろう。甘いと言う人もいるだろう。だが、私はその「甘さ」を、ただの慰めとしてではなく、社会を壊さないための設計思想として引き受けたい。
日本はたぶん、自分にも他人にも厳しすぎる。厳しさそのものが悪いのではない。だが、その厳しさが、人を立たせるためではなく、人を黙らせ、頼れなくし、孤立させる方向に働くなら、それは美徳ではなく、ただの冷たさだ。
私は、自立という言葉を、もう少し人間の現実に近い場所へ引き戻したい。
誰の助けも借りずに生きることではなく、必要な支えを受けながら、それでもなお自分の人生を自分で生きること。倒れないために手すりを持つことを恥じないこと。支えられながらでも、なお自分の足で立とうとすること。その姿を、私は自立と呼びたい。
甘いと言われてもいい。むしろ、その甘さがなければ、人は生き延びられない場面がある。社会にもまた、壊れないための「適切な甘さ」が必要だ。厳しさだけでできた社会は、強い者しか守れない。けれど、支え合いの中で主体的に生きることを認める社会なら、弱さを抱えたままでも、人は尊厳を失わずに立っていける。
両側から支えられていても、両足で立っているなら、それは立っているのだ。
そしてたぶん、人間という存在そのものが、最初からそういうふうにしか立てないのだと思う。
Originally posted 2022-06-17 12:00:00.


















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