1.夢を語ってみたら
いろんなメディアで夢を語ってみた。
ユーチューブ・ブログ・音声メディア・インスタ・ツイッター・フェイスブック等々多種多様なプラットフォームで発信してみると、結構DMとか頂けて嬉しかったです。
とにかく夢を語ると笑われるというイメージがあったので、意外と大丈夫というのがやってみた感想です。
2.夢に共感してもらえる喜び
自分の夢を諦めないためにも誰かの共感をパワーに変えられる力が欲しい。
何度も書いているが、私は他人の評価は気にしない。
ネガティブな評価はそれでいいが、折角いただけたポジティブな評価は、自分の力に変えたいと最近思っている。
勿論、ポジティブな評価を貰うために夢や目標を捻じ曲げることはしないが、何も加えず何も差し引かない夢を応援してもらえるなら、その応援を自分の力に変えたいというのは至極当然だと思う。
夢っていうものは、「叶える事は難しいし、それと同じくらい、一度抱いた夢を諦める事も難しい。
妥協して諦める時はいずれ必ずやって来る。しかしそれまで、格好悪くとも夢にしがみついたっていいじゃないか。」
と思うことが一般的なんだろう。
しかし、私の場合、夢を諦める選択がそもそもないので、この考えに共感するのは難しい。
だから、他人の夢に対して無条件に「絶対できるよ」と言ってしまうのだろう。
恐らく、若者、年長者に関係なく、私に対して夢を語ってくれた人には「絶対できる」と言ってきただろう。
恐らく例外はいないと思う。
それでも、共感という面でいうと、共感しやすい夢と共感しにくい夢があるのは変えられない事実だと思う。
この二つを分けるものは、「個人的な夢」なのか「社会的に意義のある夢」なのかであるだろう。
私の夢である「老若男女全ての人が自分を大切にする生き方をし、最後まで人生を楽しみ笑顔で全うする世界にする」
というのは、本質は、その世界を見てみたい、その世界に生きてみたいという私の「個人的な夢」だが、その内容だけ見ると「社会的に意義のある夢」に写るだろう。
まさに「自己中心的利他」の精神である。
自分のためであり、結果的に社会のためになるという非常に健全な価値観だと勝手に思っているが、だからこそ偽善的に見えるのかもしれない。
おそらく、お釈迦様なら「それは善行にカウントしない」と言われるだろうが、私には関係のないことだ。
自分を大切にして、自分の好きなように生きた結果、社会のためになったのなら最高じゃないですか?っていう俗物的なマインドの持ち主が私です。