1.人生とは捉え方だ。
人生で起こること全てはどんな捉え方を選択するのかということでしかない。ということに気付いた人は人生が楽になる。
真実は人の数だけ存在し、事実は1つのみ。
しかし事実の捉え方は複数存在し、そこは自由に選択していいというのが私の認識である。
一般常識や当たり前というものは大多数の真実であり決して事実とは言えない。
真実とは、その人個人の経験や歴史から導き出される価値観で、事実とは何のバイアスも掛かっていない起こった事象であるというのが私の持論である。
人の歴史は十人十色だが、起こった事実は一つである。
「真実はいつも一つ」という名探偵の言葉に真っ向から反論しているが、あくまでも私の捉え方であって、これが正しいとは言っていない。
だから、起こった事象に対して、これは真実なのか?正しいのか?正しくないのか?という議論をするよりも、起こった事実のみに目を向け、どう捉えるかを選択すればいい。
あるサイトでは、事実は「客観的な事柄」真実は「主観的な事柄」と表現していた。
これには私も同意する。
結局は「起こっていることは全て正しい」という言葉に全て集約されているのかもしれない。
これが結論にはなりえないと思うことがあり、いまだに燻っている。
2.事実は真実の敵(かたき)なり
セルバンテス作の「ドン・キホーテ」の名言だが、どういうこと?
と考えてしまう自分がいる。
自分なりに考えてみると、こうありたいという私自身の「自分を大切にする人生」という真実に向けて、事実を積み上げていく中で、時にその事実すら否定しなければならない状況がくるのではないかという憶測、その際に、積み上げた事実を切り捨てられるかという覚悟、更には求めている真実のために戦い続けられるのか?という事実を由来とした葛藤を敵と呼んでいるのだろうか。最早何を言っているのか訳が分からないかもしれませんが、
そんなことを考えていると寝れない日もある。
事実を積み上げれば「自分の真実に近づくが、時としてその積み上げた事実が葛藤とともに敵になる日が来るかもしれない。」そんな事実がもし起こったら、その時は揺るがない心の芯である「自分を大切にする生き方」という真実を太く深く自分の中心に持っておきたいと思うし、自分自身のシンボルツリーとして時間をかけて事実という栄養を与えながらしっかりと育てていこうと強く思います。